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情報社会で人は頭が悪くなる:出版不況と、本を読む本当の目的

遠藤司皇學館大学特別招聘教授 SPEC&Company パートナー
(写真:アフロ)

11月30日、ITmediaビジネスオンラインに「出版不況の中、大手書店企業は増収 なぜ?」と題する記事が掲載された。

記事によると、どうやら大手の書店は本業の書籍販売で売上を伸ばしているわけではないようである。電子書籍との連携や、カフェの併設などといった経営の多様化によって業績を伸ばしている。先日は、東京の神保町で岩波ブックセンターを経営していた信山社が、破産手続きを開始したところである。依然、紙の書籍は売れていない。

岩波ブックセンターは、人文・社会科学系の専門書が充実していて、その分野を学ぶ学生や研究者から大変重宝されていた。専門書は手に取って読んでみなければ、選ぶことができない。しかしすでにセンターは「しばらく休業」の状態である。同じように専門書を扱う多くの書店が、惨憺たる状況である。

これら一連の流れについて、この数日の間、筆者は色々と考えを巡らせていた。原因は、情報社会が浸透したことにある。そしてこの情報社会、実はわれわれの頭を悪くする社会なのである。

情報社会で人は頭が悪くなる

出版不況である。とはいえ実際には、電子書籍を含めれば、いわゆる書籍全体としての落ち込みは見られない。ゆえに、ビジネスの観点から言えば、変化に対応できなかった書店が消えていくだけ、ということにもなろう。しかし書籍の分類から考えてみると、事態はそう単純ではなさそうである。

文字モノ全体としてはそれなりに売れているようだ。売れていないのは、雑誌と、専門書である。なぜか。雑誌はネットのコラムをみればよいし、専門書はとっつきにくいからである。それらの本を読まなくても、スマホで検索すれば、手っ取り早く情報が手に入ると思われている。まさしくこの社会は、超がつくほどの情報社会である。

たしかに書籍は、単位あたりの情報を得るには効率が悪い。また必要な情報となれば、どれだけ読み込めば手に入るかなど、想定もできない。対してネットは、検索すれば一瞬である。情報社会とは、いついかなるときでも情報に触れることのできる、非常に便利な社会のことである。

それゆえ情報社会では、われわれは多くのことを知ることができる。また、知恵もつく。情報社会における人間は、利口である。

しかし、情報社会においては、いわゆる洞察力は育まれない。知覚はできても、かみしめることはできないのである。あるいは、たんに知ることはできても、何らかのことが解ることはない。本、読み物を読まなければ、そこには到らない。

ようするに、本を読むということの目的が理解されていないのである。本を読むのは、情報を得るためではない。知覚し、考えをめぐらせ、何らかのものを得るためである。ものごとの本質や、ものの考え方、観念、思考様式などを身のうちに取り込むためである。それは単位としての情報の集まりというよりは、叡智である。本を読むということは、何かを得るための行為というよりは、自らを育むための行為なのである。

ゆえに難しい本、考えが巡らされる本、専門書は、とりわけ読まれなければならない。知性を育むためである。知性とは、ものごとを知り、考え、判断する力のことである。判断は、何らかのものに直面したときになされる。知性なくしてわれわれは、現実社会の諸問題に直面したときに、正しく判断することはできない。ゆえに正しく行為することは、保証されないのである。

情報社会から知識社会へ

情報社会は、情報を得ることにおいて、手っ取り早いことが求められる社会である。

その兆候は、とっくの昔に表れている。例えばネットでは、長文は読まれない。筆者もYahoo!記事を書くにあたって、最初は5,000文字くらいの記事を書いたりしていた。もちろんネットでの評判はよくない。ネットでは「3行で書け」なのである。そうでなければ「頭の悪い記事」になる。しかし誰だって、書く気になれば3行で書くことはできる。主張の側面を削ぎ落とし、3つに分け、結論だけ言えばいいからである。

しかし筆者としては、できる限り全体を示したい。そうでなければ、語りたいものは、言葉のうちにあらわすことができない。それゆえ場合によっては、とっちらかった文章になる。そうでなければ全体は、明らかにできないからである。そこに至る思考プロセスが描かれなければ、本当に言いたいことは隠されたままである。

何を言っているのか。わかりやすい文章、簡潔にまとめられた文章は、本当のところはわかりにくいのである。物事はつねに複雑である。頭の中はもっとタチが悪い。それを伝えるために、平易な表現へと変換される。しかしそれは、様々な要素が切り捨てられ、無理やりメインストリートに押し込められたものにすぎない。そういったものばかりに触れていては、中身のない人間になってしまうのである。ようするにハウツー人間ができ上がるのである。

そうであるから、専門書を電子書籍化しても、当面は読まれることはないだろう。専門書が読まれるには、情報社会ではなく、知識社会が到来したことが意識されなければならない。知識社会とは、知識の多い社会のことではない。そうではなく、知識がよく活かされる社会のことである。つまりは、知識を持った人、それを扱う人が活かされる社会、重宝される社会である。

情報が蔓延する社会においては、情報を取捨選択できる人、判断のできる人が求められる。情報の傀儡にならない人が求められる。ここにおいて、使う人間と使われる人間が明確化される。

様々な含意を込めて、2,000文字程度の短い文章を書いた。人間が人間であり続けるために、われわれは自由に至る技芸を失わせてはならない。

皇學館大学特別招聘教授 SPEC&Company パートナー

1981年、山梨県生まれ。MITテクノロジーレビューのアンバサダー歴任。富士ゼロックス、ガートナー、皇學館大学准教授、経営コンサル会社の執行役員を経て、現在。複数の団体の理事や役員等を務めつつ、実践的な経営手法の開発に勤しむ。また、複数回に渡り政府機関等に政策提言を実施。主な専門は事業創造、経営思想。著書に『正統のドラッカー イノベーションと保守主義』『正統のドラッカー 古来の自由とマネジメント』『創造力はこうやって鍛える』『ビビリ改善ハンドブック』『「日本的経営」の誤解』など。同志社大学大学院法学研究科博士前期課程修了。

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