月曜ジャズ通信 2014年2月24日 ジャズの妙味はトリプル・アクセルだぜぇ号
もくじ
♪今週のスタンダード~エイプリル・イン・パリ
♪今週のヴォーカル~ナット・キング・コール
♪今週の気になる1枚~ジェイコブ・コーラー『THE ピアニスト~シネマティック・ピアノ III』
♪今週のジャズが流れる想ひ出~中野“ビアズレー”“オーブレー”
♪執筆後記
「月曜ジャズ通信」のサンプルは、無料公開の準備号(⇒月曜ジャズ通信<テスト版(無料)>2013年12月16日号)をご覧ください。
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♪今週のスタンダード~エイプリル・イン・パリ
この曲は、1932年のレヴュー「ウォーク・ア・リトル・ファスター」のなかの、パリ・セーヌ川のシーンのために書かれました。
作詞はエドガー・イップ・ハーバーグ、作曲はヴァーノン・デューク。
デュークはロシア帝国下のキエフ(現在はウクライナの首都)で育ち、成人するとアメリカやイギリス、フランスに渡って、ショーやバレエの音楽に携わっていました。1929年、再びアメリカに渡るとジョージ・ガーシュウィンに認められ、レヴューやミュージカルの世界で活躍するようになりました。
ハーバーグはニューヨーク生まれ。ほかにも「オーヴァー・ザ・レインボウ」「イッツ・オンリー・ア・ペーパー・ムーン」「オールド・デヴィル・ムーン」といった、広く知られたスタンダード曲の作詞を担当しています。
この曲の作詞にあたって、ハーバーグはパリを訪れたことがなかったので、渡仏経験のあるデュークに話を聞いて創作した、というエピソードが伝わっています。
レビューでイヴリン・ホーイが歌った当時の評判はそれほどでもなかったのですが、すぐに女性シンガーのマリアン・チェイスがレコード化して売りだすと爆発的なヒットとなり、ヴァーノン・デュークを一気にトップ作曲家へと押し上げたという経緯があります。
1952年には、ドリス・デイ主演で「エイプリル・イン・パリ」という映画が作られ、もちろん主題歌として歌われました。
♪Doris Day- April In Paris
映画公開(1952年)に合わせてドリス・デイが収録したヴァージョンです。
♪April in Paris- Count Basie and his Orchestra (1965)
ビッグ・バンド冬の時代と言われた1940年代を経て、1950年代に再結成を果たした名門カウント・ベイシー・オーケストラの代表作になったタイトル曲。ベイシーはこの曲をステージのエンディング・テーマに使っていたそうです。
♪Coleman Hawkins- April in Paris
1920年代から50年代にかけて、ジャズの変遷とともに進化し続けたサックスの巨人、コールマン・ホーキンスによるヴァージョン。彼のモダン・ジャズに対応した情緒あふれる表現方法は、クール・ジャズだけでは完成しなかった“ジャズの多様性”を得るために欠くことのできない要素だったとボクは思っています。
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♪今週のヴォーカル~ナット・キング・コール
“アフリカン・アメリカン×ヴォーカル×ダミ声”という問いに対してルイ・アームストロングが正解だとすれば、“アフリカン・アメリカン×ヴォーカル×美声”の正解はナット・キング・コールとしなければなりません。
1919年に米アラバマ州モンゴメリーで生まれたナット・キング・コールは、母の影響でオルガンを習い、1930年代になるとピアニストとして活動を始めました。
当初は旅回りのレヴュー劇団専属の楽団で指揮者をしていましたが、ツアー中に資金持ち逃げ事件にあってしまい、仕方なく旅先で生活費を稼ぐために仲間とバンドを組んでナイトクラブに出演することにします。ところが予定していたメンバーがまたまた逃げてしまい、やむなくドラムのいないバンドで出演したところ、これが大当たり。ピアノ+ギター+ベースというフォーマットは、以降のジャズ・トリオのスタンダード=基準として確立、彼はそのオーソリティとして名を残すことになったのです。
こうしてピアニストとしての名声を高めていく一方で、世間は彼の美声にも注目するようになります。ブレイクしたのは、彼が自身のトリオをバックに歌った「ストレイトン・アップ・アンド・フライ・ライト」で、1944年の大ヒット・ナンバーに数えられています。
1950年代以降はジャズに限らない曲にも挑戦し、「モナリザ」「スマイル」「L-O-V-E」などはいまでも世界中の人々に愛聴されています。
♪Nat King Cole & The King Cole Trio- Straighten Up And Fly Right
ジャズ・シンガーとしてのブレイクのきっかけとなった曲です。コーラスを配してヴォーカリストのレコーディングとは趣向を変えていますが、後の歌唱を彷彿とさせる名調子と言えるでしょう。間奏のピアノが光っているのは言うまでもありません。
♪Nat King Cole, Unforgettable
イントロなしでいきなりこのスローなバラードを歌い出す技量は、やはりピアニストとして磨いたセンスの賜物だったのでしょうか。この曲は1991年に彼の愛娘のナタリー・コール(<月曜ジャズ通信 2014年1月20日 冬晴れゲロッパ絹の靴下号>でもピックアップしました)がオーヴァー・ダビングによってヴァーチャル・デュオに仕立て直したことでも話題になりました。
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♪今週の気になる1枚~ジェイコブ・コーラー『THE ピアニスト~シネマティック・ピアノ III』
ジェイコブ・コーラーは、1980年米アリゾナ州フェニックス生まれのピアニスト。高校時代から数々のコンクールで優勝し、アリゾナ州立大学入学後も作曲コンコールで注目を浴びるなど、頭角を現わしていました。
2009年には拠点を日本に移し、ジャズに限らないフィールドで多くのアーティストと共演を果たします。
“シネマティック・ピアノ”は映画音楽を題材にジャズ・アレンジを施したアルバム企画で、2011年の第1弾から続く、ジェイコブ・コーラーの代名詞とも言えるアプローチとなっています。
第3弾の本作では、全編をピアノ・ソロでまとめて、映画音楽の世界をピアノ1台のサウンドで表現するという、ワン・ステップ上のチャレンジをしています。
テクニシャンならではの細部の描写に加えて、大胆な省略法によるメイン・キャスト=メロディの色付けというコントラストが際立ち、これまで以上に映画とジャズのマリアージュが深まっている仕上がりです。
映画音楽は、映像のインパクトが強いせいか、それのみを抽出して別のジャンルに味付けし直すことが難しいかもしれません。
ジェイコブ・コーラーの成功の要因を考えると、自身の端正なピアノ・スタイルを崩さず、メロディの強さに逆らわないという曲との対峙の仕方にあるような気がします。
フェイクと呼ばれるジャズ特有の“オリジナルの崩し方”をすればそれなりのジャズ・アレンジができあがるところを、それを潔しとせず、あくまでメロディ本来の流れに任せるその“自然さ”が、彼の魅力であり、この“シネマティック・ピアノ”シリーズの真骨頂でしょう。
♪ジェイコブ・コーラー/ジ・エンターテイナー(映画「スティング」より)
ジェイコブ・コーラーの強みは、やはり圧倒的なテクニックです。ラグタイムやビバップのみならず、クラシック・ピアノの超難度技も繰り出しての表現力があってこそ、映像を超えたサウンドだけの世界が確立できるわけです。でも、リスナーはその技術ではなく、その裏に託された彼の“映像によってもたらされた豊かなイメージ”を楽しめばいいのです。
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♪今週のジャズが流れる想ひ出~中野“ビアズレー”“オーブレー”
今回は中野の話。1970年代後半のことだ。
ボクが通っていた高校は、中野から延びた支線の終点にあった。悪友たちとツルんで遊びまわるのに学校近辺では都合が悪く、新宿や渋谷は制服を着替えてから行く必要があったりしたので、気軽に立ち寄るには歩いていける中野が便利だったのだ。
中野は不思議な地域で、新宿や渋谷ほど大きな繁華街ではなかったのに、妙な活気があった。
北口に延びるサンモール商店街の周辺や、その突き当たりにある中野ブロードウェイというショッピング・センターは、サボりの高校生がウロウロしていても気にしない適度な猥雑さを漂わせ、あてもなく暇をつぶそうとするボクらにとっては居心地のいいエリアだった。
南口にあった“ロックイン”はハード・ロック系の選曲なので好みに合わず、ボクはプログレ系やジャズが好きな友人たちと北口へ向かうことが多かった。
ブロードウェイの3階か4階にあった“櫟(くぬぎ)”というロック喫茶は、選曲はそれほど個性的ではなかったが、夕方以降はチャップリンの無声映画を壁に投影しロックを聴きながら映像を楽しむことができたりして、ヒネた高校生の好奇心を妙にくすぐっていたようだ。
記憶がもうおぼろげになってしまったのだが、サンモール商店街から脇に入ったところに“ビアズレー”と“オーブレー”というジャズ喫茶があった。
“ビアズレー”にはJBLのパラゴンという、奇妙なかたちの木製スピーカーが鎮座ましましていて、このシステムで硬派なジャズをガンガン鳴らしていた。一方の“オーブレー”はフュージョンやヴォーカルものがかかることも多く、その日の気分で行き先を決めていたのだと思う。
この両店は姉妹店で、名前はイギリスのイラストレーターで詩人、小説家のオーブリー・ビアズリーに由来する。彼の妖しいイラストがマッチ箱に用いられていて、ジャズを含めて自分の知らない大人の世界を垣間見たいという少年の好奇心を大いに煽ってくれた。
“ビアズリー”でいまでも鮮明に覚えているのは、デヴィッド・フリーゼンの『スター・ダンス』が流れてきたときのことだ。
そのときのことをだいぶ前に自分のホームページに書いていたので、引用してみよう。
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デビッド・フリーゼンは1942年ワシントン州生まれのベーシストだ。18歳でウェスタン・ギターからベースへ転向、20代後半あたりからシアトルやサンフランシスコのセッション・シーンで注目を浴びるようになり、74年にはジョー・ヘンダーソン・グループ、75年にビリー・ハーパー・クィンテットに参加。初リーダー作をリリース(75年『カラー・ブルー』)。76年からはニューヨークへ進出して、盟友のジョン・ストーウェルらと行動をともにするようになる。
彼が大きくクローズ・アップされたのは77年のモンタレー・ジャズ・フェスのオープニング・アクトだったそうだ。観衆は“度肝を抜かれた”そうだが、その場にいなかったボクは想像すらできない。残念だ。しかし、疑似体験はすることができた。
ボクとデヴィッド・フリーゼンの出会いは、ボクが高校3年生のころだから、1977~78年。彼がクローズアップされたのとほぼ同時期だ。
受験に対する意欲を失い、遊びほうけていたその高校生は、家へ真っ直ぐに帰らずジャズ喫茶で過ごすことも多かった。学校が中野に近かったため、友人と誘い合ってよく中野のジャズ喫茶を訪れた。特に、パラゴンという特異な形状をしたすばらしい音のスピーカーが置いてあったビアズレーというジャズ喫茶はお気に入りだった。
その日、ビアズレーに入ると、突然クラシカルな笛の音とともに、太いベースが聞こえた。しばらく聴いていると、そのアルバムにはホーンとギターの入ったクァルテットのほかに、ベースのソロらしき演奏が収録されていた。“らしき”というのは、とてもソロだとは思えない技量によって演奏されていたから、信じられなかったのだ。
客のまばらな昼過ぎのジャズ喫茶で、曲面を描いたどでかいスピーカーから、驚異的なベース奏者の演奏が流れていた。すでに放心していたボクは、それでもようやく、そのアルバムのタイトルとアーティスト名だけは覚えておこうと気力を振り絞った。
アーティストの名前は、デヴィッド・フリーゼン。アルバムは『スター・ダンス』だ。1976年11月8日に収録された、当時としては新譜の部類に属するアルバムだったのだろう。
ボクは早速、そのアルバムを買いに走った。予想通り、大手レコード店にはなかった。日本盤がリリースされているとは思えなかったからだ。当時の多くのジャズ・レコードがそうであったように、ボクは輸入盤を扱うショップを歩き回った。
探すのに数カ月かかったと記憶している。手にした『スター・ダンス』は、運搬時の保管が悪かったのだろうか、大きくゆがんで針が飛んでしまうようなヒドイ盤だったが、交換しようにも1枚しかない状態で、ガマンして買うことにした。そのままではプレイヤーに載せられないので、半月ほど百科事典を上に重ねて、盤のゆがみを軽減させた。ようやく聴けるようになった『スター・ダンス』は、さすがにパラゴンで聴いたようなエッジの効いたベースにはならなかったが、それでもやっと、デヴィッド・フリーゼンが我が家に来たことを喜んだ。
アメリカでの評価に比して、彼の日本での評価は芳しくなかったと思う。80年には来日して尺八の山本邦山や佐藤允彦らとアルバムを作ったりしたが、数々のジャズ・ジャイアンツとの共演のニュースは聴くものの、彼自身のアルバムをクローズアップする動きは鈍くて、ボクはいつも彼のアルバムを入手するのに苦労していた。
ウチにデヴィッド・フリーゼンのアルバムが6枚ほど溜まったころ、世の中はCDの時代へと移り変わり、彼の活動はますます聞かれなくなって、CDでのリリースも聞かないまま時は過ぎていった。
『スター・ダンス』以来20数年間、レコード・ショップで気が付けばデヴィッド・フリーゼンのアルバムを探していたような気がする。レコード会社のヒトに尋ねたりお願いをしたことも、実はあった。でも、日本での再発や、彼の消息についてはなかなか知ることができない状態が続いた。
一昨年の秋頃だったと思う。その日も何気なく新宿のヴァージン・メガストアをブラブラしていた。ジャズやフュージョンの棚にめぼしい物件がなかったので、ニュー・エイジの棚を見ていた。なんと、デヴィッド・フリーゼンのコーナーがインデックス付きであるではないか。こんなに興奮したのは、ネッド・ドヒニーの2ndアルバム『ハード・キャンディ』を原宿のフリマで発見したとき以来じゃなかっただろうか(笑)。
そこに置いてあったのは、残念ながら『アポン・ザ・スゥイング』の1枚だけ。早速買って帰ったのだけれど、資料を読むと1993年にリリースされたアルバムで、このほかに94年リリースのアルバムもあるという。90年代に入ってからの活動がほとんど知られていなかったので、このニュースはうれしかった。彼はヨーロッパに拠点を移して、ワールドミュージックへの進出をはかっていたというのだ。そういう影響がサウンドにも出ていた。
今年の夏、新宿のタワーレコードを物色していると、今まで見落としていたようにガサッと彼のCDが並んでいるのを発見した。もちろん、残らずに買った。ウチにはデヴィッド・フリーゼンのCDが7枚になった。
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富澤えいち「ジャズ四谷口」第20号(2001年11月27日版)
♪David Friesen-Fields Of Joy
その後、無事にCDも入手。1976年のレコーディングで、メンバーはデヴィッド・フリーゼン(ベース)、ジョン・ストーウェル(ギター)、ポール・マッキャンドレス(オーボエ、イングリッシュ・ホルン)、スティーヴ・ガッド(ドラム)。このアルバムのスティーヴ・ガッド、キレてます。
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♪執筆後記
あるライヴ会場で、こんな会話が繰り広げられました。
「カッコいいなぁ~、類家心平さん。彼ってうまいよね?」
「“うまい”っていう基準がジャズでは難しいんだよね」
「でも、うまいって言われる人はいるんでしょ?」
「たとえばエリック宮城さんなんかは、ブラスバンドやっている学生たちにとっては“神様”みたいになってるようだけどね」
「ふーん、でもよくわからないなぁ。フィギュア・スケートでいえばトリプル・アクセルを飛べる浅田真央ちゃんみたいだってこと?」
「そうだなぁ、浅田真央とキム・ヨナでどちらがスケートうまいのかって比べるようなものかもね」
――と、聞いているほうも説明しているほうもわかっているのかわかっていないのかよくわからない、というのがまた“ジャズの妙味”だったりして。
富澤えいちのジャズブログ⇒http://jazz.e10330.com/