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今日は没後15年の命日、実相寺昭雄監督「金科玉条」の言葉

碓井広義メディア文化評論家
実相寺昭雄・著『闇への憧れ』(版元ドットコム)

実相寺昭雄監督が亡くなったのは15年前の今日。2006年11月29日のことでした。

もう15年なのか、まだ15年なのか。

たとえば、監督と接してきたメンバーが集まる「実相寺昭雄研究会」の会合では、実相寺昭雄は常に「現在形」で語られます。

冥界の監督は「おいおい、いつまでやってんだ」と笑うかもしれませんが、まったく過去の人ではありません。

そういう存在を持てたことの幸せを、15年が過ぎた今も感じています。

1960年代にTBSで放送された、「ウルトラマン」「ウルトラセブン」「怪奇大作戦」など、印象深い作品の数々で知られる実相寺監督。

長編映画デビュー作「無常」(70年、ロカルノ国際映画祭グランプリ)をはじめ、「帝都物語」などの映画、さらに音楽番組やオペラの演出などでもその才能を発揮しました。

ウルトラマンからオペラまでの広がりと奥行き。テレビディレクター、映画監督、オペラ演出家としてはもちろん、小説、絵や書、そして監督が大好きだった鉄道に関しても、すべて一流の仕事を残しています。

監督との出会いは、テレビマンユニオンに参加した1981年。それ以来、2006年に監督が亡くなるまでの25年間、様々な形で師事してきました。

旅番組「遠くへ行きたい」(日本テレビ系)で監督が演出する回は、プロデューサーとして担当する自分の番組をそっちのけにして、ADを務めました。

監督の代わりにロケハンを行い、一緒に神田、鎌倉、気仙沼、そして長崎などへ出かけたロケは、ひたすら楽しかった。

今思えば、ロケ自体が、実相寺学校の移動教室でもあったのです。現場でいつも驚かされるのは、創ろうとする映像のイメージが明確であることと、それを実現するための巧みな技術です。

また、私がプロデュースした番組では、監督に何度もタイトル文字を書いていただいた。ひと目で監督の書とわかる筆文字。あの独特の字体が好きでした。

それから映画「帝都物語」。原作者が、仲人をさせていただいた作家・荒俣宏さんだったこともあり、企画段階から公開まで、いくつもの思い出があります。

何より、荒俣さんと実相寺監督、それぞれ自分にとって大切な人物が、一つの作品で出会ったことが嬉しかった。

監督の著作はいくつもありますが、命日に読むのにふさわしい(?)のは、1977年に出版された最初の本『闇への憧れ~所詮、死ぬまでの<ヒマツブシ>』でしょう。

テレビや映画をめぐる、たくさんのエッセイ・評論を収めたもので、現在は復刊されています。

どのページを開いても、鋭くて、どこか少し照れたような、ちょっと韜晦(とうかい)気味の、監督らしい言葉が並んでいます。

そして、この本の「あとがき」の、これまた最後に、こんな文章が置かれているのでした・・・。

最近、私は二つの言葉を金科玉条としている。ひとつは、たまたまテレビで見たイギリス映画、ピーター・ホール監督『女豹の罠』にあった科白で「男は自分の好きな仕事をしなければなりません。嫌いな仕事なら、金がたくさん入らなければなりません」というもの。

もうひとつは、たまたまひっくり返していた愛読誌『ヤングコミック』の欄外語録にあった黒柳徹子さんの言葉だ。「一度でもコマーシャルをやった人間はえらそうなことを言っちゃいけない」というもの。

民放上がりのテレビジョン・ディレクターとしての私の万感は、この二つの言葉に尽きている。もうこれ以上何も言うまい。

実相寺昭雄監督、2006年11月29日没、享年69。

合掌。

実相寺昭雄・著『闇への憧れ [新編]』(版元ドットコム)

メディア文化評論家

1955年長野県生まれ。慶應義塾大学法学部政治学科卒業。千葉商科大学大学院政策研究科博士課程修了。博士(政策研究)。1981年テレビマンユニオンに参加。以後20年間、ドキュメンタリーやドラマの制作を行う。代表作に「人間ドキュメント 夏目雅子物語」など。慶大助教授などを経て、2020年まで上智大学文学部新聞学科教授(メディア文化論)。著書『脚本力』(幻冬舎)、『少しぐらいの嘘は大目に―向田邦子の言葉』(新潮社)ほか。毎日新聞、日刊ゲンダイ等で放送時評やコラム、週刊新潮で書評の連載中。文化庁「芸術祭賞」審査委員(22年度)、「芸術選奨」選考審査員(18年度~20年度)。

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