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『どうする家康』 なぜ徳川家康はこんな軽々しい人として描かれるのか その意外な事情

堀井憲一郎コラムニスト
(提供:イメージマート)

小心者で軽い『どうする家康』の徳川家康

本年の大河ドラマ『どうする家康』はなかなか軽い。

「血で血を洗う戦国時代」が舞台であるが、軽い。

松平元康、のちの徳川家康(松本潤)を小心者として描き、第1話では戦場から逃げ出していた。

本多忠勝(山田裕貴)に力ずくで引きずり戻される無様さであった。

元康は当時数えて18歳である。

小心者だし、見ようによっては卑怯だし、あまりリーダーらしくない。

『遁げろ家康』という池宮彰一郎の小説もあるし、小心者としてとらえる描写は司馬遼太郎の作品にもある。

家康にはどうもそういう側面があったようだ。

驚くべきタイトルバックの軽さ

ただ『どうする家康』でその小心者さよりも出されているのは「軽さ」だとおもう。

大河ドラマだが家康が軽い。

何といってもタイトルバックが軽い。

前作『鎌倉殿の13人』は、禍々しい時代を描いて、そのタイトルバックも物々しかった。

ある意味、禍々しさをタイトルも受け持っていた。色合いも重かった。

『どうする家康』のタイトルバックは明るい。

朝ドラ『あさが来た』をおもいだしてしまったくらいだ。

カラフルで明るい。見ていてちょっと浮き浮きする。

厳しいコメディであった前作『鎌倉殿の13人』

『どうする家康』はコメディではない。

前作『鎌倉殿の13人』は三谷幸喜が脚本だったので、かなり「演劇的なギャグ」が多数散りばめられていた。

コメディトーンのドラマであった。

たとえば、三浦義澄(佐藤B作)が死ぬとき、枕元にかけつけた北条時政(坂東彌十郎)が「死ぬんじゃねえぞ」と呼びかけると瀕死の状態から三浦が跳び起きて「一緒に逝こう!」と北条に抱きつくので「馬鹿言え!」と突き放したら、床に倒れて、そのまま三浦は死んだ、というような展開である。

言葉のギャグではない。

演劇としてのギャグであり、スラップスティックな、ドタバタの、つまりコント的なものであった。

これが毎回どこかに入っていた。

『どうする家康』が見せる軽やかさ

『どうする家康』の脚本は古沢良太で、ドラマ『リーガル・ハイ』や『コンフィデンスマンJP』の脚本家である。

どこまでもドラマとしてのおもしろみを追求するタイプである。

演劇的喜劇性はあまり入ってこない。

そこには軽やかさがある。

第1話で、駿府(静岡)と岡崎の違いが描かれているところがあった。

駿府は都会、岡崎は田舎、という描写で、元康の家来たちもずいぶん土臭い連中で、宴会でも泥臭い芸を見せるばかりだ。

この芸がまたおもしろくない。

少年元康も「こりゃ何がおもしろいんじゃ」と困惑している。

そういう情景が、そこはかとなく、おもしろいのだ。

「家来たちの懸命の泥臭い芸を黙って見ている元康」がつまらなさに困惑している、というのは、笑えるわけではないのだが、見ていて何だか和む。

ダレる場なのに、それを何となく見せきる作りがこのドラマの真骨頂だろう。

そして、そこにあるのはコミカルさではなくて軽やかさなのだ。

歴代の家康は重鎮の役者が演じていた

もともと徳川家康は、慎重で重厚な人物とされているのがドラマの定番である。

大河ドラマでも、そういうタイプの役者が配されることが多かった。

2000年以降の大河でみると、

2000年の『葵 徳川三代』では津川雅彦、

2002年『利家とまつ』で高嶋政宏、

2003年『武蔵』は北村和夫、

2006年『功名が辻』西田敏行、

2009年『天地人』松方弘樹、

2011年『江〜姫たちの戦国〜』は北大路欣也であった。

重鎮とも言える役者たちである。

「戦国時代の最大の大物」としての徳川家康のイメージがあり、それに合う役者が割り当てられている。

おそらく日本人の家康のイメージがそういうものだからだろう。

家康の軽量化は『おんな城主 直虎』から

ところが、近年、とみに徳川家康は軽量化している。

軽くなっているのだ。

大河ドラマでいえば、境い目は2017年の『おんな城主 直虎』からではないだろうか。

このドラマで家康を演じたのは阿部サダヲだった。

素敵な役者である。

ただ、前世紀だったら、まずこのタイプの役者が家康を演じることはなかったような、かなり軽めの家康である。

人の言うことによっていろいろ変わる軽々しさがあった。とくに正妻の瀬名の言葉をとても大事にしていた。

言ってしまえば「おじさん感」が薄い。

松平元康の時代は妻(菜々緒)にずっと尻に敷かれているというありさまで、尻を叩かれて懸命に戦っていたような家康であった。

『真田丸』の家康は重く、『麒麟がくる』の家康は軽い

その前年、2016年の『真田丸』では、これは三谷幸喜の脚本であったが、家康を演じたのは内野聖陽であった。かつて大河で主演も演じた(2007年『風林火山』での山本勘助)いわば重厚な役者の重厚な家康であった。

そしてこれを最後に、家康は軽くなったのだ。

2016年と2017年に何かの境い目がある。ひょっとしたら、社会の何かしらの気分、もしくは文化的な繋がりの境い目なのかもしれない。

3年のち2020年『麒麟がくる』では風間俊介が家康だった。

これも軽い家康である。

重鎮・北大路欣也までも『青天を衝け』で軽い家康になった

そして、2021年『青天を衝け』では北大路欣也が再び家康役を演じたが、このドラマの舞台は幕末から明治大正期であり、家康が死んで200年以上たった時代である。

そこに神君家康公が案内役として登場していた。

北大路欣也らしく、大御所徳川家康という風体で出現して、貫禄充分の見映えであるが、狂言回しだし、言い方を換えれば「道化」でしかなかった。

つまり北大路欣也が演じても、2021年の家康役はとても軽かったのだ。

そして2023年『どうする家康』の軽やかな松本潤である。

2017年の『おんな城主 直虎』をさかいに、家康は軽くなって、そのまま戻っていない。

「タヌキおやじ」像から抜け出す徳川家康

どうやら、家康に対するイメージが、社会全般で変わってきているようだ。

かつての「タヌキおやじ」という印象がそれほど強くなくなっている。

あまり喋らず、表情が読めず、しかし裏ではいろいろ動いている「いやーな感じ」のおじさん。

いわば「日本のおじさん像」そのものの化身のような存在だったのだが、そういうポジションから逸脱し始めて、それが常態になっていきそうなのだ。

ひとつは「家康も弱い若者だった」という「家康像を若年化して和らげよう」という心情が作りだしているように見える。

これは「おじさんも見ようによってはかわいい」という視点の延長にあるようにおもえる。

たとえばボーイズラブ(BL)文化は、若い美形の男子同士の恋愛を愛でるのが主流ではあるが、一定数で「イケメンのおじさん」も対象に入っており、そういう作品はいくつもドラマ化映画化されていく。

それと、家康が軽くなっていく流れは、ある意味、同一であるように見える。

「新世代」による実は恐ろしい変革のさなかの家康像

もうひとつは、社会の柔らかな変化にある。

「過去に作られた権威は、そのまま受け取るように見せかけて、違う意味でとらえ直せばいい」という新世代の感覚によるものだ。

新世代というのはインターネットやスマートフォンを幼いころからふつうに使っている世代を念頭に使っている。

徳川家康というのは、過去の権威存在であるが、その存在は受け入れる。

ドラマの主人公に据える。

でもいままでの肉感的イメージは受け継がない。

そういう態度である。

昭和の反抗は「ずらし」であった

かつての若い世代の反骨は(昭和の若者を想定して言ってます)、たとえば「家康を主人公に据えること」そのものへの反抗があった。

家康ではなく、「秀吉の妻ねね」や「春日局」、「戦国時代に少し遅れた伊達政宗」などの視点から秀吉、家康を描く、というような「ずらし」の視点を大事に考え、そこからいろいろ見直そうとしていた。

それがいまは、「偉人の偉い部分」ではなく、「偉人もふつうの若者だった面」にフォーカスを当て、とらえ直している。

それはそれでいいとおもう。

ただ、内側に入って価値そのものを変質させるという変革なので、じつは正面からの反抗よりもはるかに文化の様相そのものを変えていってしまう。

そういう柔らかい強さがある。

この変革に直撃されている文化エリアでは、静かに衝撃的な変動が起こり続けている。たぶん明治維新での文化変革よりも大きい。

2010年代に始まった変革は、おそらく後戻りできないほどの大きな変化になりつつある。

「家康がどんどん軽くなっている」変容の大きさ

その現れのひとつが「家康がどんどん軽くなっている」に現れているようにおもう。

そして、このゆっくりとした変容が力強いのは、「軽い家康」を見ていると楽しいというところにある。

「自分のなかで形作られた家康像をぜったいに壊したくない」という人たちを除けば(かなり一定数いるのだけれど)、いまの若者の延長上にいるような明るくまっすぐで軽い家康は、いまの時代の空気の中で見ていると、とても見やすい。

徹底した文化の大衆化の流れのなかで、これからいろんな歴史上の偉人も軽量化されていくだろう。

歴史的な重みとは離れていくかもしれない。

しかたがない。

いまだとかなり権威的に見える徳川時代であっても、講釈師は歴史事実をどんどん無視しておもしろいように話を作っていたから、歴史を曲げて自分たちへわかりやすいように解釈するのは、べつだん現代特有の病いではない。

おそらく人類の持っている「癖」のひとつでしかない。

そして『どうする家康』は、軽々しい家康が活躍し、そして現代的な恋愛(およびそのあとの悲恋)も描いて、ますます目が離せなくなっていきそうだ。

軽い家康が受け入れられないと、たぶん見るのは苦しいとおもわれる作品だ。

どうするんだろう『どうする家康』。

そうおもってしまう。

コラムニスト

1958年生まれ。京都市出身。1984年早稲田大学卒業後より文筆業に入る。落語、ディズニーランド、テレビ番組などのポップカルチャーから社会現象の分析を行う。著書に、1970年代の世相と現代のつながりを解く『1971年の悪霊』(2019年)、日本のクリスマスの詳細な歴史『愛と狂瀾のメリークリスマス』(2017年)、落語や江戸風俗について『落語の国からのぞいてみれば』(2009年)、『落語論』(2009年)、いろんな疑問を徹底的に調べた『ホリイのずんずん調査 誰も調べなかった100の謎』(2013年)、ディズニーランドカルチャーに関して『恋するディズニー、別れるディズニー』(2017年)など。

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