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広瀬すずはなぜ不思議なキャスティングをされていたのか 『夕暮れに、手をつなぐ』で見せたその底力

堀井憲一郎コラムニスト
(写真:ロイター/アフロ)

広瀬すずの無茶な九州言葉にバイタリティが溢れる

元気な広瀬すずを見ているのは、いい。

ドラマ『夕暮れに、手をつなぐ』ではまっすぐで元気な女性を演じて、惹きつけた。

何者でもない若い女性を演じると、やはりいいなとおもう。

九州の田舎から東京に出てきて、変な九州言葉で喋り続ける女性はバイタリティに溢れていて、まわりを巻き込み、動かしていく。

いろんな言葉が混じった九州言葉はどうやら「元気さ」を表すために使われていたようである。

地元民には聞き苦しかったのだろうが、詳しくない者にとっては「聞き慣れない地方の言葉」として聞くばかりで、「バイタリティ溢れる女性」を印象づけさせる小道具だったのだろう。

人目を気にしない女子がわけのわからない言葉を使うということで、まあ、地元民にとって耳触りだというのはわかるのだけれど、でも広瀬すずの達者さも加わって奇妙な説得力に富んでいた。

田舎の人を演じると、広瀬すずはなかなか強い。

何者でもないヒロインを見ていると元気になる

東京に出てきたとき、このヒロイン・浅葱空豆(あさぎそらまめ)は何者でもなかった。

高校時代から付き合っていた彼氏と結婚するつもりで、おもいこみと勢いだけで東京にやってきたのだが、彼にはお似合いの新しい彼女がいて、彼女の居場所は東京にはなかった。

一晩で結婚資金を使い果たした彼女は、何も持っていない女性であった。

だからこそ、見ていて元気になった。

浅葱空豆を演じる広瀬すずを見ているだけで、元気になれた。

「田舎の人+変な九州言葉」は表面的な記号であり、彼女が演じていたのは「若い娘の無鉄砲なパワフルさ」である。

ドラマでは、広瀬すずパワー全開で人を巻き込み、みんなを元気にしていった。

そこに共感するかしないか、というのがポイントであった。

広瀬すずには明るい役が合う

広瀬すずには、ほんとうは、こういう役が似合う。

何の前提もなく、根っから明るく、そして元気な女性がよく似合う。

でもこれまで(ドラマでは)そういう役をキャスティングされてこなかった。

ちょっと不思議であった。

まあ、演技が達者でなめらかなので、単純な役が振られてこなかった、ということだろう。

明るくまっすぐな役は得意だが、それだけやっていると、深みの感じられない若い娘に見えてしまう、それを避けようとして、屈折した娘を演じていたのではないか。

暗さを抱えた役を演じるのが広瀬すずの定番になっていた。

ちょっと不思議なキャスティングであった。

いつもだいたい、親がいない。

「一人で生きていく覚悟をした少女」を広瀬すずは演じてきた

ドラマでいえば2016年の『怪盗 山猫』、2017年『anone』、2019年朝ドラ『なつぞら』、どれも基本設定は「孤独な子」であった。

明るく前向きだが、家族にはめぐまれず、芯のところに「一人で生きていく覚悟」を抱えている少女である。

映画でいえば『海街diary』での異母妹役などもそうで、「本来の居場所」でないところに居つき、屈折を押し隠してそれでも明るい。

そういう役が広瀬すずの馴染みのポジションであった。

屈託があるのに、それでも明るさを感じさせる魅力的な少女、というのがあまり存在しないからだろう。

姉広瀬アリスとの対比

姉の広瀬アリスが、「屈託のない明るいばかりの役どころ」を演じるのとちょうど対になっている。姉妹で陰陽の対比になっている。

そしてみな、アリスの明るさは「すごく頑張って明るい」という努力によって支えられているのだろうとうすうす感じているし、すずの屈折は、おそらく彼女のなかにある小さい屈折部分をうまく拡大して見せてくれているのだろうな、とそれも言葉にせずとも納得している。

あらためて、広瀬すずは映画『ちはやふる』や『チア☆ダン』で見せたような、まっすぐストレートな女性を演じると、人一倍輝いて魅力的に見える、ということである。

テレビドラマでそういう広瀬すずを見るのは珍しい。

十代後半から少し避けていた、ということなのだろう。

「明るくて元気いっぱい」は「ひょっとして元気なだけの人か」と軽く見られることに直結しており、それを丁寧に回避して数年すぎて、そろそろいいだろうと回帰してきたように見える。

おそらく『夕暮れに、手をつなぐ』を見て安心したのは(わたしが、個人的に勝手に安心していたのだが)そういう原点回帰が感じられたからなのだとおもう。

恋愛ドラマとしてはストレート

『夕暮れに、手をつなぐ』は恋愛ドラマとして、ストレートな展開である。

偶然に出会って、仲が深まるも、やがて道が分かれ、そしてやがて…というのは男女物語の王道パターンだ。

昭和のころからよく見かけた世界である。それでいいとおもう。

昭和と令和で人の根本が変わるわけではない。

天和のころの八百屋お七だって、似たような恋に悩んでいたばかりである(ちょっとやりかたはまずかったけれど)。

いつの時代でも恋愛物語は同じパターンでいいのである。

何者でもない人たちの物語

ただ、『夕暮れに、手をつなぐ』は恋愛ドラマではあるが、その魅力の根本は「何者でもない人たちの物語」というところにあった。

浅葱空豆(広瀬すず)も海野音(永瀬廉)も最初は何者でもない。

音は音楽をやっているが、まだ何の成果も出していない無名の若者だ。

空豆にいたっては、結婚に失敗した無一文の田舎からの上京者、そば屋でアルバイトをしているばかりだ。異種業交流会では「そば屋の出前持ち」と自己紹介していた。しかもアルバイト仲間(伊原六花)には「あんた、そば屋は向いてないよ」と言われている始末である。

何者でもない二人が交叉する物語であった。

ゆっくりした展開の魅力

その、何者でもない彼女が「服が好き」と気づくのは4話になってからである。

ゆっくりとした展開だ。

1話では「大東京」と書いたパーカーを嬉しそうに着ていた田舎じみた彼女が、4話できれいなドレスに見とれてしまう。ファッションへ傾倒していく。

そこまでゆっくり時間が流れているところ、そこから世界ががらっと変わるところ、それがお話として心地いい。

「青学のセリーヌ・ディオン」を着飾る空豆の才能

空豆は、デザインに興味を持ち、実際に作り始めると、すぐに周りが驚くような才能を発揮した。

なかなか痛快である。

ドラマの展開は痛快なほうがよろしい。

「青学のセリーヌ・ディオン」と呼ばれたシンガー(馬場園梓)のゲリラライブのとき、彼女はただの賑やかしとして呼ばれただけだったが、「衣装つくりましょうか?」と申し出て、布を巻き付けただけの素敵なドレスを作った。

あっと言う間のことだった。

本人も気づいていなかった才能が開花する現場を、目撃することになる。

わくわくする。

みんなを高揚させようとするドラマ

恋愛ドラマでありながら、ドラマの狙いはもっと広く「みんなを高揚させること」にあったのだろう。

ファッション界と音楽界で若者が才能を開花させ、輝く存在となっていくさまをゆっくりと見せてくれる。

ゆっくりと、というところがよかった。

何者かになっていく過程で、二人のスタンスが変わっていく。

『逃げるは恥だが役に立つ』のようなエンディングダンス

そういう単純な物語がいくつか重ねられ、複層構造になっているから、広瀬すずは「明るくただ元気」を存分に演じられたのだろう。

広瀬すずの「不思議な屈折のキャスティング連続」はそろそろ終わるのかもしれない。それはとても楽しみである。

エンディングでは毎回、広瀬すずと永瀬廉が、ダンスをしていた。

『逃げるは恥だが役に立つ』から何年経ったのだろうとおもわせるような出来になっていて、7年経ってますね、これを眺めていると悲しい最後にはならないのだろうと信じられた。

それが「根本的な明るさトーン」を支えていた。

永瀬廉と広瀬すずの物語

相手役は永瀬廉である。

彼もまた、陰のある役どころが多かった。朝ドラ『おかえりモネ』での「亮ちんの魅力的な陰翳」をおもいだしてしまう。

そういう永瀬廉が明るい恋愛ドラマの片方を担っているのがいい。

広瀬すずのパワーで引っ張られて、彼もまた輝く光のなかにいる。

やはり、楽しいドラマはいい。

そして、広瀬すずは、疑いもなく明るいキャラクターが似合う。

たぶん、彼女の何かに近いからだろう。見ていてそう感じた。

『夕暮れに、手をつなぐ』は、なかなかに痛快な作品であった。

コラムニスト

1958年生まれ。京都市出身。1984年早稲田大学卒業後より文筆業に入る。落語、ディズニーランド、テレビ番組などのポップカルチャーから社会現象の分析を行う。著書に、1970年代の世相と現代のつながりを解く『1971年の悪霊』(2019年)、日本のクリスマスの詳細な歴史『愛と狂瀾のメリークリスマス』(2017年)、落語や江戸風俗について『落語の国からのぞいてみれば』(2009年)、『落語論』(2009年)、いろんな疑問を徹底的に調べた『ホリイのずんずん調査 誰も調べなかった100の謎』(2013年)、ディズニーランドカルチャーに関して『恋するディズニー、別れるディズニー』(2017年)など。

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