“テキサスブロンコ”と呼ばれた名レスラー、テリー・ファンクが残した功績を3つのポイントで挙げる
米国の名レスラー、テリー・ファンクが79年の生涯を閉じた。“テキサスブロンコ(テキサスの荒馬)”の愛称で半世紀以上にわたってリングに上がり続けたテリーの功績は、NWA世界王座の獲得やWWE殿堂入りなどでは言い表すことはできない。日本では漫画『キン肉マン』に登場する人気超人、テリーマンのモデルとなり、多くのファンに愛されたテリーの何が偉大だったのか?3つのポイントに絞って紹介したい。
徹底的な受け身の凄さ
テリー・ファンクの名を聞いて多くのファンがまず思い浮かべるのは、1977年に兄ドリーとのタッグチームでザ・シーク、アブドーラ・ザ・ブッチャーと対戦した試合だろう。ブッチャーがテリーの右腕にフォークを突き刺した衝撃的シーンは今も語り草だ。とにかく、テリーのやられっぷりが光っており、観る側に「そこまでやるか!」と思わせる徹底的な受け身において、テリーの右に出るものはいなかった。この一戦で全日本プロレスの世界オープンタッグ選手権は大ヒットし、翌年以降は世界最強タッグ決定リーグ戦の名で恒例となった。年末にタッグという風物詩を作ったのもテリーの功績なのである。
事件性のあるプロレス
テリーは今で言う“ハードコアスタイル”の元祖で、先述した試合の他にも、凄惨な試合を数多く残している。特にスタン・ハンセンに顔面を血まみれにされた上にブルロープで首を絞められた試合は、コンプライアンスという概念がない1983年当時のテレビでさえ、オンエアを自粛したほどだった。流血のほかにも、乱入、失神、号泣、絶叫などを盛り込んだテリーの事件性のある試合はジャイアント馬場のプロレスとは正反対とはいえ、ライバル団体の新日本プロレスに対抗するうえで、大きな力になったと思う。全日本プロレスが事件性を排除した「明るく楽しく激しいプロレス」を打ち出すのは、テリーがいなくなってからの話である。
順応するスタイルの幅
また、兄のドリーが冷静沈着のイメージで不変だったのに対し、テリーは試合スタイルの幅が本当に広かった。善と悪の使い分けはもちろん、時代や団体によって自分の見せ方を変え、多くのライバルを輝かせてきた。例えるなら、様々な役になりきる名俳優のようなもので、初来日の頃と90年以降にインディー団体に上がっている頃の写真を見比べると、とても同一人物とは思えないし、50歳を過ぎてからムーンサルトプレスを使い始めたレスラーを筆者はテリー以外に知らない。常に新しいものを採り入れ、モデルチェンジを成功させてきた姿は多くのフォロワーを生んでおり、大仁田厚はその代表格である。
以上3つが、テリーがプロレス界に残した功績だと考えるが、もうひとつ、元NWA世界王者のテリーは、技の開発にも積極的だったことも付け加えておきたい。ローリング・クレイドルは天龍源一郎や小橋建太が受け継いだし、テキサス・クローバー・ホールドは現役の棚橋弘至が使用している。父のドリー・ファンク・シニアから伝わる“伝家の宝刀”スピニング・トー・ホールドを含め、テキサスブロンコの技や魂が次世代のレスラーにも伝わっていくことを願っている。
※文中敬称略