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【逃げ上手の若君】北条高時は五代院宗繁になぜ嫡男の万寿を託したのか?

濱田浩一郎歴史家・作家

元弘3年(1333)5月、後醍醐天皇方となった新田義貞軍は鎌倉を攻撃します。鎌倉幕府軍の有力武将らは新田軍らを相手に奮闘しますが、相次いで戦死・自害していきました。北条時行の父・高時は鎌倉の東勝寺にいましたが、高時の前で家臣たちも切腹していきます。そしてついに高時も自刃します。軍記物語『太平記』における高時の死の描写は「相模入道切り給へば」と頗る簡潔です。

高時は死の前に、嫡子の邦時(幼名・万寿)を逃がそうとしていました。北条得宗家の被官・五大院右衛門宗繁に邦時の身を託そうとしたのです。宗繁は『太平記』によると「相模入道(高時)重恩を与へたりし侍」でした。それだけでなく、高時の嫡子・邦時の母は、宗繁の妹だったのです。宗繁にとって邦時は「甥」であり「主」(あるじ)でもあったのでした(『太平記』)。そうした所縁から、高時は宗繁なら信用できる、裏切ることはないと思ったのでしょう。「邦時を汝に預け置く。どのような手段を使っても、これを隠し置いて、時が来たと見た時は、担いで怨みを晴らせ」と宗繁に命じたのでした。宗繁はその命令に対し「承知致しました」と答え、鎌倉における合戦の最中に「降人」となったのです。

鎌倉での戦が終わると、残党狩が始まります。北条の縁者を捕らえた者は所領を貰い、隠し置いていた者はあっという間に殺されてしまうという事態となったのです。こうした恐ろしい事態を前にして、五大院宗繁に心境の変化があったとしても誰が責めることができるでしょうか。宗繁は亡き主君・高時の遺命に背こうとするのです。

歴史家・作家

1983年生まれ、兵庫県相生市出身。皇學館大学文学部卒業、皇學館大学大学院文学研究科博士後期課程単位取得満期退学。兵庫県立大学内播磨学研究所研究員、姫路日ノ本短期大学講師、姫路獨協大学講師を歴任。『播磨赤松一族』(KADOKAWA)、『北条義時』『仇討ちはいかに禁止されたか?』(星海社)、『家康クライシスー天下人の危機回避術ー』(ワニブックス)ほか著書多数

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