平安貴族の恋愛・結婚と正妻と妾の違いは?藤原道長の正妻と妾事情
平安時代の女性たちは基本的に屋敷の生活が中心でした。外出が少ない女性は家族や親族以外に顔を見せる機会が少ないので、源氏物語の一説にある『一夜を共にした翌朝に初めて相手の顔を見る』と言ったエピソードもリアルにあったそうです。現代では信じられない感覚ですね。
そこで今回は平安時代の貴族の恋愛・結婚について紹介します。
平安時代は一夫一婦制?
源氏物語でも光源氏と多くの女性の恋模様が描かれている様子から、平安時代は一夫多妻制を取っていたのでしょうか?
実際には法的に重婚は刑罰の対象として男性は懲役1年、女性は杖刑一百と明記され、二人の妻を持つことは犯罪とされていました。
ここで定められた妻の事を正妻として、基本的には親同士が相手の家柄などを考慮して決められていました。このことから、まひろが道長の正妻として婚姻関係を結ぶのは立場を考えると難しいと考えられます。
正妻以外の内縁の妻は『妾』
法律的には一夫一婦を取っていたのですが、この時代の貴族は公式に認められた正妻の他に、同居をしない内縁の妻的な『妾』を持つことが常識とされていました。
妾の立場は非常に弱く、いつ来るか分からない夫を待ち続けなければいけません。夫が来なくなれば関係はそれで終わりを告げます。一方で正妻と離婚するには何らかの理由が必要でむやみにできませんでした。
ちなみに紫式部と結婚した藤原宣孝の両人も『妾』の関係でした。
何も保証のない立場であるからこそ、まひろは道長の妾ではなく正妻になりたかったのだと推測されます。
恋のきっかけは口コミから
平安時代の恋のきっかけは、口コミから始まります。
『ここの姫は美しいようだ』『ここには一人娘がいる』などの情報を娘たちの親や乳母たちが流し、男性陣が情報をもとに屋敷の垣根、植え込みの隙間などから奥にいる意中の女性をのぞき見しました。
現代でいうところの【マッチングアプリでプロフィールでお気に入りの女性を見つけた!】といいましょうか、この覗き見からの一目ぼれで男性は女性にアプローチをすることになります。
女性へのアプローチ方法が和歌を送ることで、源氏物語では光源氏も若紫に和歌を送っています。この和歌のやり取りが当時の男女交際とされ、交際を認められるには相手の女性はもとより女房役や乳母たちにも気に入られなくてはいけません。周りの反対が多いと。どんなに良い内容の和歌でも姫に届かないこともありました。
三連泊の後に結婚が成立!?
周りに交際が認められ和歌のやり取りで二人が親密になると、結婚に向けてギアを上げていきます。そして、オフラインでの顔合わせになります。
これは夜に女房たちの手引きで、男性が女性の部屋に忍び込む手はずになっています。しかし、どんなに親密になっても会って相性が悪いと思ったら、その一晩で関係は終わってしまいます。この辺は、現代のマッチングアプリと通ずるところがありますね。
一方で、お互い気に入れば男性は通い続けます。そして、3日目の夜になると女性側が婿に迎える証として男性に『三日夜餅』と呼ばれる儀式が行われ、餅がふるまわれます。この儀式が結婚式的なもので、晴れて二人は夫婦となるのでした。
二人の間に子どもが生まれると基本的に女性が育てます。しかし、正妻以外との結婚は、男性が他の女性に夢中になったら自然消滅することが多く、夫婦関係はとても不安定なものでした。正妻との嫡子か妾との庶子の立場で出世も大きく違い、藤原兼家の庶子・道綱は、11歳年下の嫡子・道長に出世の先を越されています。
藤原道長は愛妻家だった!?
『源氏物語』の光源氏のモデルが藤原道長とも考えられています。有名なところでは在原業平説もあります。物語の内容を考えると道長は権力の頂点に立っただけに女性関係も相当派手だったのでしょうか?
史料には豊臣秀吉のようなすごい逸話は残されていないそうです。
藤原道長は正妻の倫子、妾・藤原明子との間にたくさんの子どもを授かっています。妾も明子以外に、藤原為光の姉妹や自分の娘の女房もいたとか。
結局は他の貴族たちと同じく妾はシッカリと持っていましたが、基本的には正妻・倫子と行動することが多く、妾の所にはあまり通っていなかったと言います。もしかしたら、当時の貴族たちの中では藤原道長は愛妻家の部類だったのかもしれませんね。