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【インタビュー後編】クリス・マコーマック、3カラーズ・レッドとブリットロックを語る

山崎智之音楽ライター
The Professionals / photo by TATAMI

2018年12月にザ・プロフェッショナルズの一員として来日したギタリスト、クリス・マコーマックへのインタビュー後編をお届けする。

前編ではクリスの原点であるUKパンク・ロックへの傾倒、ゲイリー・ニューマンやアダム・アントとの共演について語ってもらったが、後編では彼の名を世界に知らしめた3カラーズ・レッドでの活動、そして1990年代の“ブリットロック”ムーヴメントについて訊いた。

<3カラーズ・レッドは『クリエイション』唯一のパンク&ロックンロール・バンドだった>

●3カラーズ・レッドは元フォーゴッドセイク、元スカイクラッド、元ダイアモンド・ヘッドという、メタル寄りのバンドのメンバーによって結成されたバンドですが、どのように独自の音楽スタイルを形成したのですか?

俺にとって、本当にやりたい音楽が3カラーズ・レッドだったんだ。俺はセックス・ピストルズのファンだったし、パンクとロックンロールをクロスオーヴァーさせた音楽を志していた。フォーゴッドセイクのアルバム『Blasthead』(1993)では俺がギターを弾いているけど、バンドの音楽性には関わっていなかった。サイドマン的な役割だったんだ。3カラーズ・レッドでは主に俺が曲を書いて、ピート(ヴコヴィッチ)が歌詞や歌メロを書いていた。彼自身も多くの曲を書いていて、「コパー・ガール」や「ビューティフル・デイ」はピートの曲だったけどね。

●あなたとピートの音楽性はどのように異なっていましたか?

3 COLOURS RED『Pure』ジャケット(ソニーミュージック)
3 COLOURS RED『Pure』ジャケット(ソニーミュージック)

ピートの曲には俺と異なった個性があった。メロディ・センスやアプローチがまるで違っていたよ。それがファースト・アルバム『ピュア』(1997)の音楽を魅力的にしていたと思う。ただ、2作目の『リヴォルト』(1999)はうまくいったとは言えない部分もあった。ピートは3カラーズ・レッドをザ・ヴァーヴみたいにしたいのか?...と思ったね。「ビューティフル・デイ」がヒットしたのだって(全英チャート11位)、『ピュア』でファン層を築いていった結果なんだ。良くも悪くも、ピートと俺は異なった方向を向いていた。

●『クリエイション』のオーナー、アラン・マギーは3カラーズ・レッドにどんな音楽性を求めたのですか?

アランは良いロックンロール・バンドを求めていたんだ。俺たちのライヴは最高に熱かったし、ルックスだって当時は悪くなかった(笑)。『フィアース・パンダ』レーベルから出したデビュー・シングル「ディス・イズ・マイ・ハリウッド」も出来が良かったし、彼が気に入りそうな要素が幾つもあったんだ。

●『クリエイション』というとオアシスやプライマル・スクリーム、マイ・ブラッディ・ヴァレンタイン、ティーンエイジ・ファンクラブ、ライドなどで知られていますが、3カラーズ・レッドは彼らとはかなり異なったスタイルでしたよね?

インディー・ロック系が多かった『クリエイション』で、俺たちは唯一のパンク&ロックンロール・バンドだった。とは言っても、オアシスやプライマル・スクリームもそれぞれ異なった、ユニークな個性を持っていたけどね。

(ここでトム・スペンサーが乱入)

トム:俺とダニー(マコーマック)が『リヴォルト』でバック・ヴォーカルをやってるんだよ。“From out of the air it seems, she fell into my dreams〜♪”(「ピルエット」の一節を歌う)

●3カラーズ・レッドは1996年のデビューからわずか3年後の1999年に解散してしまいますが、短命に終わったのは何故でしょうか?

いろんな理由があって、俺とピートの歯車が合わなくなったこともひとつだったけど、もうひとつが酒とドラッグだった。特にドラマーのキース・バクスターが重度のアルコール中毒だったんだ。彼が酒を飲むのではなく、彼自身が酒に呑み込まれていくようだった。キースはツアー中、1日に3回は泥酔していた。飲んでいるか寝ているかのどちらかで、ショーの直前には手が震えないように飲む必要があった。最後のツアーでは当時ザ・ワイルドハーツのリッチ・バターズビーに代役を頼むことを検討したぐらいだよ。リッチだったら3カラーズ・レッドの曲を知っていたからね。キースはそれほど酷い状態だったんだ。彼は肝臓の内出血で亡くなったけど(2008年)喀血したり、大変だった。ボロボロだったけど、親しい友人だったし、いなくなって寂しいよ。

(トム、再び乱入)

ベン・ハーディングは再結成したセンスレス・シングスでプレイしているよ。白髪の長髪とヒゲで、魔法使いみたいになっていた。

●当時、『クリエイション』ファミリーの一部だという意識はありましたか?

特になかったな...ただ俺は『クリエイション』のオフィスのすぐ近くに住んでいたから、近所のパブに寄ると、よく所属ミュージシャンがインタビューを受けていたよ。カムデンにある“スプレッド・イーグル”や“グッド・ミキサー”、“ダブリン・カッスル”とかね。ノエル・ギャラガーやボビー・ギレスピーはたまに見かけて、顔見知りになった。ブラーやパルプのメンバーもいたな。当時、マスコミは“オアシスvsブラー!”とか煽り立てていたけど、同じパブで一杯やったりしていたんだよ。パブは大抵午後11時に閉店するから、その後に誰かのアパートに雪崩れ込んだり、良い時代だった。ノエルは“スプレッド・イーグル”と同じ通りに住んでいたから、何度か彼のアパートに行ったこともあった。ブリットポップのファンにとっては、まさに黄金時代だろうな。

The Professionals / photo by TATAMI
The Professionals / photo by TATAMI

<グランド・セフト・オーディオにはもっと深く関わるつもりだった>

●3カラーズ・レッドの最初の解散後、あなたはグランド・セフト・オーディオに参加しますが、そのときのことを教えて下さい。

グランド・セフト・オーディオはラルフ・ジェザードとリッチ・バターズビーが結成したプロジェクトだった。ラルフはEMFの「アンビリーヴァブル」(1990)を手がけたプロデューサーで、当初は単にアルバム『ブレイム・エヴリワン』を作るためのプロジェクトだったけど、俺とリアルTVのジェイ・バトラーが加入したことで本格的なバンドになったんだ。音楽性もプログラミングやヒップホップを中心としたものから、よりロックなサウンドになった。

●グランド・セフト・オーディオもアルバム1枚とツアーのみで、短期間で解散したのは何故でしょうか?

まあ、メンバー間の認識のズレだよな。俺たちはアメリカで精力的にツアーして、ラルフとリッチはアメリカに居を定めた。でも俺はアメリカに住むことに興味がなかったんだ。とはいっても、1年ツアーをやって、俺自身バンドの一員だという意識があった。だから2枚目のアルバムにはクリエイティヴな部分で深く関わるつもりだった。でもラルフに10曲のデモが入ったCDを渡されて、「これが次のアルバムだ。ヨロシク」といわれたんだ。正直ガッカリしたよ。俺はカヴァー・バンドにいるのではないからね。それで渡されたCDを路上にポイと捨てて、その場を立ち去ったよ。ちょうどその頃、ピート・ヴコヴィッチが3カラーズ・レッドを再結成したいと言ってきた。それでその話に乗ることにしたんだ。

●再結成3カラーズ・レッドもやはり短命に終わってしまったわけですが、どんな事情があったのですか?

3カラーズ・レッドはアルバム『The Union Of Souls』(2004)を出して、ツアーをやったけど、長続きしなかったんだ。かつてのスリルが失われていた。『ピュア』からの曲をプレイするのは楽しかったけど、俺とピートの関係が刺激的でなくなってしまったんだ。彼に対する敬意を失っていたし、それを取り戻すことが出来なかった。それで別の道を行くことにしたんだ。再解散してから、ピートとは一度も話していないよ。彼はソロとして『ソニー』と契約を結んだけど、結局アルバムを完成させることが出来なくて、そのまま契約を切られてしまった。で、俺はゲイリー・ニューマンのバンドに入ったんだ(前編記事を参照)。

The Professionals / photo by TATAMI
The Professionals / photo by TATAMI

<“ブリットロック”なんてまったく意識していなかった>

●私が初めて3カラーズ・レッドのライヴを見たのは1996年4月21日、ザ・ワイルドハーツとリアルTVとの英国イルフォード“アイランド”公演でした。

イルフォードでのショーは覚えているよ。3カラーズ・レッドはまだ最初期で、兄貴のダニーが前座に起用してくれたんだ。別のサポート・バンド(ブレイムレス)が出られなくなったとかでね。けっこう大きな会場で、緊張したのを覚えている。俺たちがライヴをやってしばらく後、会場で殺人事件があって、閉鎖してしまったんだ。

●現在のザ・プロフェッショナルズはポール・クックを除いて全員が直接的あるいは間接的にザ・ワイルドハーツと関わりを持っていますね。

うん、近親相姦的(incestuous)だよな(苦笑)。トムはジンジャー・ワイルドハートと何度もプレイしたことがあるしね。俺はジンジャーと同じバンドにいたことはないんだ。何度か誘われたことがあるけど、毎回断ってきた。ただ、7年ぐらい前に一度、ジンジャーとスタジオに入ったことがある。ジンジャー、俺、スノウ・パトロールのネイサン(コノリー)、デンジル、ダーティ・プリティ・シングスのディズ・ハモンドという顔ぶれで、ブラック・パンサーズというバンド名だったんだ。俺のスタジオで一度リハーサルをやっただけで、ライヴもやらずに解散したよ。リハーサルの音源を持っているのは世界で俺1人だ。あと、ザ・ワイルドハーツ絡みだと、俺がロンドンに引っ越してきたとき、CJワイルドハートが結成したハニークラックに加入したんだ。でも長髪を切れと言われて断ったから、すぐにクビになった。当時はいろんな交流があって、すごく楽しかったな。

●1990年代中盤から後半、いわゆる“ブリットロック”ムーヴメントが勃興しつつありましたが、あなた自身はその一部だと考えていましたか?

いや、別に。“ブリットロック”なんて呼び名は音楽とは関係なかったんだ。“パンク”だって音楽を表現する呼び名ではなかった。セックス・ピストルズとクラッシュとバズコックスはまったく異なっていただろ?俺たちはムーヴメントなんて意識していなかったし、自分たちの音楽をやるので精一杯だったよ。ザ・ワイルドハーツ、スカンク・アナンシー、アッシュ...どのバンドもまったく異なっていた。共通しているのはみんなイギリス人で、ロックをやっていたこと、それだけだった。リーフとはドイツで一緒にショーをやったことがある。テラーヴィジョンとは知り合いで、トニー(ライト)は気が良い奴だったから、「よお、元気?」みたいに話していたよ。

●ちなみにロストプロフェッツと面識はありましたか?

...うん、あったよ。俺がゲイリー・ニューマンとツアーして不在のとき、女友達が俺の家に下宿することになった。彼女が(シンガーの)イアン・ワトキンスと付き合っていたんだ。それで彼は俺のロンドンの家に1年ぐらい住んでいた。別に彼を招いたわけではないけど、自然に我が家に居座っていたよ。俺がツアーの合間に帰宅すると「やあ、元気?」みたいな感じで普通に挨拶していた。イアンは禁酒していたけど、コカインにハマっていた。ただ、変な人間ではないと思って、気に留めなかったんだ。その家には俺の妻と娘も住んでいた。娘が4〜5歳の頃だよ。今から考えるとゾッとするね。その頃はまったく変質者っぽくはなかったんだ。彼が逮捕されて、誰もがショックを受けたよ。

(注:ロストプロフェッツは1990年代後半にデビューしたウェールズ出身のバンドで、パンキッシュなロックで人気を博したが2012年、シンガーのイアン・ワトキンスが1歳の女児へのレイプ未遂を含む複数の幼児性的虐待で逮捕。29年の禁固刑で服役中で、バンドは解散した)

●イアン・ワトキンスはペドフィリア(幼児性愛)の素振りは見せていませんでしたか?

まったく見せていなかった。俺の周囲の人間は誰も想像すらしなかった。確かに奇妙な人間ではあったんだ。昼間、女友達が留守にしているとき、別の女を連れ込んだりね。あ、もちろん成人した女性だったよ。とはいっても俺の家にどこの誰とも判らない女を呼ぶのは止めて欲しいと思った。さりげなくそのことを言ったら、彼は「判った」と言っていたよ。もうひとつ奇妙だったのは、彼の話していたことだ。自分には別人格がいて、それが無敵のスーパーヒーローだと言っていた。何をしてもいい、誰も自分を止められないってね。そのスーパーヒーローの名前を言っていたけど、忘れてしまった。そのときは奇妙だと思ったけど、笑って済ませた。あんな最悪の変態だとは、まったく知らなかったんだ。

●ぜひまた日本に戻ってきて下さい!

うん、日本はプライベートでも来るぐらい大好きな国なんだ。残念でならないのは、1990年代に3カラーズ・レッドとして日本でショーを出来なかったことだ。あのとき日本公演が中止になったのは、当時のレコード会社にアメリカ・ツアーを優先するように要請されたからだった。「アメリカでブレイクするなら今しかない」ってね。何度も「日本のファンとの約束を守りたい」と主張したけど、どうにもならなかった。結局、初めて日本に行ったのは8年後、ドゥノッツの前座としてだった(2004年11月)。ライヴ自体は良かったし日本のファンは盛り上がってくれたけど、ヘッドライナー・ショーではなくて、ショータイムは短かった。そうしてバンドは再解散してしまったんだ。だから悔いが残っているよ。ただ、これから何度でも日本に戻ってくるつもりだ。日本と俺の物語は始まったばかりだよ。

音楽ライター

1970年、東京生まれの音楽ライター。ベルギー、オランダ、チェコスロバキア(当時)、イギリスで育つ。早稲田大学政治経済学部政治学科卒業後、一般企業勤務を経て、1994年に音楽ライターに。ミュージシャンを中心に1,300以上のインタビューを行い、雑誌や書籍、CDライナーノーツなどで執筆活動を行う。『ロックで学ぶ世界史』『ダークサイド・オブ・ロック』『激重轟音メタル・ディスク・ガイド』『ロック・ムービー・クロニクル』などを総監修・執筆。実用英検1級、TOEIC945点取得。

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