なぜ「電車と帰還困難区域」の写真は波紋を呼んだのか?【常磐線全線再開2周年・復興と広報その1】
きょう、3月14日で常磐線の全線運転再開から2周年である。常磐線の復旧とそのムード作りというテーマで、この9ヶ月くらい取材してきた。それを今回から数回に分けて掲載する。
東日本大震災と福島第一原発事故からの復興は、いつになったらなしとげられるのだろうかということは、だれにもわからない。だが、少しでももとの状態を回復しようとしない限り、永遠に復興しない。
鉄道は、大きな被害を受けた。東日本大震災「だけ」の影響、つまり地震とそれによる津波の被害によるものだったところは、段取りを決めて少しずつ復旧を進めていった。
JR東日本の仙石線は、高城町から陸前小野間の線路を内陸に移設し、2015年5月30日に全線復旧した。石巻線は女川駅を内陸に移設し、浦宿~女川間が2015年3月21日に運転を再開した。山田線の宮古~釜石間は、JR東日本が線路や設備を復旧した上で、三陸鉄道へと移管、三陸鉄道の路線として2019年3月23日に開始した。盛~釜石間の南リアス線、宮古~久慈間の北リアス線ではこの段階ですでに運行が開始されており、この日を境に全線を「リアス線」とした。
鉄路による復旧を断念し、「公共交通」としての実を取ったところもある。気仙沼線や大船渡線だ。これらの路線は、BRT(バス高速輸送システム)による復旧を選択し、代わりに早期の公共交通の確保を可能とした。
気仙沼線は、2012年12月22日にBRTとしての本格的な運行を柳津~気仙沼間で開始。前谷地~柳津間は鉄道で残ったものの、一部BRTが直通運行している。大船渡線は、内陸部の一ノ関~気仙沼間は鉄道がそのまま残ったものの、気仙沼~盛間で2013年3月2日に運行を開始した、鉄道で復旧すると気仙沼線は700億円、大船渡線は400億円かかり、どちらも利用者は将来的に減少することが予想されていたからだ。
仙石線は仙台と石巻の間の利用が多く、また三陸鉄道は鉄道を走らせることを観光資源として考えていたという背景から鉄道の復旧が行われたものの、気仙沼線や大船渡線はもともと特急が走っていたような路線でもなければ、利用者も少ない路線であったために、バス転換となった。
もっとも、気仙沼線や大船渡線は、鉄道の時刻表にBRT路線として掲載することができ、BRTのみの駅でも、陸前高田のように「みどりの窓口」が残されているだけ、地域としてはよかったと考えられる。なお、気仙沼線や大船渡線は、2020年4月1日にBRT運行区間の鉄道事業を廃止した。
仙石線は「幹線」という扱いだったものの、優等列車は走っていない路線である。その他の路線は、「地方交通線」という扱いである。だが、「幹線」であり、いっぽうで特急列車も運行されている路線で、東日本大震災の影響を大きく受けた路線がある。常磐線だ。
日暮里から岩沼、列車は上野から仙台まで運行されるこの路線は、1982年に東北新幹線が盛岡まで開通する前は、上野~大宮間で上信越方面、さらに福島までは山形・秋田方面への列車が多く走っていたために線路容量がひっ迫していた東北本線の補佐的路線として存在していた。東北新幹線開業後も、青函トンネル開通までは対北海道連絡を目的とした寝台特急「ゆうづる」が多く走っていた。
常磐線のバイパス的要素は、「ヨンサントオ」と呼ばれた1968年(昭和43年)10月1日の国鉄ダイヤ改正前はもっと強かった。青函連絡船の深夜便に接続する昼行特急「はつかり」は内陸部の東北本線の勾配を避けるために常磐線を経由していた。「はつかり」は1958年に10月に客車特急として誕生し、1960年に日本初の気動車特急となる。この「はつかり」は、列車番号「1D」を付され、青函連絡船1便、函館からは気動車特急「おおぞら」1Dに接続していた。それだけ重要な列車が、常磐線を走っていたのだ。なお、電車特急になって「はつかり」が東北本線経由のエル特急になっても、青函連絡船1便接続の列車は必ず「1M」だった。
「ヨンサントオ」以降も、昼行特急「みちのく」や寝台特急「ゆうづる」、また急行列車や貨物列車が走り、重要な路線として存在していた。
その沿線に福島第一原子力発電所ができたのは、1971年3月26日である。着工は1967年9月29日。このときできたのは、1号機である。1979年3月には6号機まで完成している。1967年の着工時には、「はつかり」は常磐線を経由し、20系客車の「ゆうづる」は平(現在のいわき)~仙台間はC62形蒸気機関車がけん引していた。もっとも古いスタイルの動力で動く鉄道が、当時最新の技術だった原子力と同じ地域に存在していたのだ。
常磐線には対北海道連絡の特急が多く走り、いっぽうで特急「ひたち」のように、常磐線沿線と東京とを結ぶ列車も運行されていた。その列車の中には、双葉町や大熊町のように、福島第一原発事故被災地の駅に停車するものもあった。仙台から上野まで行く「ひたち」(全線開通後は上野東京ラインを介して品川まで行く列車も登場した)は、2011年3月11日14時46分まで、これらの地域と仙台や東京とを結びつけていた。
3月5日には東北新幹線で「はやぶさ」がデビューし、東北新幹線にE5系が登場、ひさびさの同線の新車に鉄道ファンは盛り上がっていた。3月12日には、JRグループがダイヤ改正。九州新幹線が全線開業し、めでたい事態になるはずだった。
いっぽう、常磐線特急では、2012年春に特急をいわきで分割し、上野~いわき間といわき~仙台間の列車にする予定があった。JR東日本水戸支社では、いわき~仙台間の列車名を募集していた。だがその計画は、実現しなかった。
東日本大震災と福島第一原発事故で、常磐線は断たれた。
津波で線路が流出したところもあれば、原発事故の放射線の影響で人が立ち入れないところもあった。
線路の復旧は、少しずつ進んでいった。
2011年5月14日には上野~日暮里~久ノ浜間、亘理~岩沼~仙台間で運行を再開したものの、その先は長かった。
久ノ浜~広野間は同年10月10日に運行を再開。12月21日には原ノ町~相馬間が復旧した。原ノ町~相馬間については、前後の区間がまだ復旧せず、この区間だけ独立して運転されることとなった。
これらの区間は、津波や原発事故の影響が少ないため、復旧に時間がかからなったというところである。
津波被災区間については、内陸部への移設なども検討される。この間、2012年には現在使用されているE657系が登場、2013年3月16日のダイヤ改正では、全特急列車はE657系になる。
このダイヤ改正にあわせて、浜吉田~亘理間が運転を再開した。
2014年6月1日には除染などが完了した広野~竜田間が復旧。楢葉町がもとの町にもどるという判断をしたためだ。
だが、その先は警戒区域となっていたエリアだ。竜田から原ノ町までは、被害の調査にも時間がかかった。
2015年2月に被害の調査が終わる。その年の3月14日、常磐線には大きな変化が起こった。
「上野東京ライン」の開業だ。
従来は常磐線の列車は上野止まりで、その先には行くことはなかった(ただし、東北新幹線の工事開始前は列車線を使用して東京発着の列車も運転されていた。東北新幹線の上野~東京間の地上区間の工事のため、列車線の土地を新幹線に譲った)。神田付近の東北新幹線の走行区間にさらに高架線をつくることで、東北本線・高崎線や常磐線の列車も東京駅へと行くことができるようになった。東北本線・高崎線の列車は横浜方面へと直通することになったが、常磐線の列車は品川で折り返すことになる。
東京エリアの常磐線は、新しい時代に対応し、都心への直通を果たした。特急も、多くの列車は品川発着となり、東京からいわきまで、直通することができるようになった。
だからこそ、その先がまだという状況は、もどかしい。
いわきより先、福島第一原発の近くのエリアが、どうにもならない。
2016年7月12日には小高~原ノ町間で運行を再開。線量の高いエリアへと近づいていく。12月10日には相馬~浜吉田間が復旧し、小高から岩沼・仙台までがようやく結ばれた。
線路付近の除染は徐々に進んでいく。この間、富岡町の帰還困難区域を除く避難指示は2017年4月1日に解除された。同年10月21日に竜田~富岡間で運転を再開した。
いっぽう、浪江町の帰還困難区域を除く避難指示も2017年3月31日に解除され、4月1日に浪江~小高間で鉄道は復活した。
残るは富岡~浪江間となった。居住制限や帰還困難となっている地域がほとんどであり、いまなお人が暮らせる状況にないこのエリアでは、まずは除染をし、鉄道を通すことが第一の目的となった。
鉄道を通すために、線路もしくはその周辺の除染を優先し、復旧に向けた工事を進めた。2018年内には除染は終了した。大野~双葉間は複線だったものが、単線として復旧されることになった。2019年12月18日から試運転を開始した。
だが、試運転が開始されても、まだ避難区域は解除されなかった。解除されたのは、2020年3月になってからのことだ。双葉駅前は4日に、大野駅前は5日に、夜ノ森駅前は10日となった。
3月14日に、常磐線の全線復旧がなしとげられた。地域輸送のための普通列車のほかに、特急「ひたち」が東京圏や仙台圏と結ぶようになった。富岡から浪江まではすべて無人駅であり、富岡・大野・双葉・浪江は特急列車が停車するものの、「指定席券売機」での対応となった。あわせて、浪江より南側は、Suicaの東京エリアとなった。チケットレス特急券とSuicaを使えば、「指定席券売機」さえ使用せず東京へと向かえることになった。なお、小高から北側は、Suica仙台エリアである。
この日にようやく、常磐線がもととほぼ同じ姿になった。新型コロナウイルスの影響で大きなイベントは行われなかったものの、簡単な式典などが行われた。地元の人が集まり、復活した鉄道を歓迎している様子が、報じられた。
常磐線の全線復旧を一つの契機として、復興を進めようとする雰囲気が、社会的に醸成されている印象を、筆者は受けた。
いっぽう、今回復旧したエリアでは、これは第一歩にすぎないのではないか、という疑問も抱かせるに十分な様子でもあった。
常磐線の一番列車は、E531系による普通列車だった。これは、首都圏の常磐線を走っている青い帯の常磐線15両編成の、5両の付属編成と同じものである。その一番列車の写真が、波紋を広げることになった。
2020年3月14日、写真が波紋を呼ぶ
波紋を呼んだ「帰還困難区域」とE531系
その3月14日、『朝日新聞』のニュースサイトから1枚の写真が発信され、夕刊にも掲載された。
https://twitter.com/asahi_photo/status/1238593493582266368
一番列車が、大熊町を通るとき、「帰還困難区域」を示す看板と一緒に写し出されていた。6時4分、上りの普通列車。テールライトが光っている。
車両は、E531系。首都圏にも同じ車両が走っている。福島第一原発事故の被災地と、東京とがダイレクトに結ばれたかのように示されたものだった。
いっぽう、「この先 帰還困難区域につき 通行止め」という立て看板も、写真にはおさめられていた。
「めでたい常磐線復旧の日に、なぜこんな写真を載せるのか」。そういった趣旨の反発が、ツイッターを中心に巻き起こった。この写真を使用したことに、細野豪志衆議院議員は怒りをあらわにした。現在は自由民主党所属だが、震災時は民主党に所属していた細野衆議院議員は、2011年1月発足の菅直人第2次改造内閣で内閣総理大臣補佐官を務め、4月15日から「原子力発電所事故全般についての対応及び広報担当」を担当した。6月27日からは原発事故の収束及び再発防止担当大臣をになった。その人物のツイートである。
https://twitter.com/hosono_54/status/1238737863367221249
https://twitter.com/hosono_54/status/1344284527527530496
だが、この常磐線の全線復旧は、線路とその周辺の除染を他よりも優先して行われたもので、そういった風景が出てくるのもしかたがないことである。
写真自体は、常磐線の復旧一番列車と、その沿線の現状を示した優れた写真だと考える。だが、「水を差すのか」「空気を読め」という反応もまた起こっており、そのことに違和感を抱かせられた。
多くの報道では、特急列車の出迎え式の写真を掲載していた。その際に、多くの人たちはE657系特急「ひたち」を歓迎していた。それもまた現実だ。
しかし、帰還困難区域の中を縫うように鉄道が走っているというのも、現実だ。
めでたさとまだまだと、双方あるのが現状である。
『朝日新聞』の帰還困難区域と常磐線一番列車の写真を撮影したのは、同紙記者の福留庸友さん。話を聞いてみることにした。
写真の反響については、「ネガティブな反響が大きかった」と語る。福留さんはこれまでも震災や原発事故の写真取材を続け、仙石線などにも行ったという。
だが今回の常磐線全通では、「いままでと違う」状況があったという。「人も帰れない、線量も高い」という状況であることは、認識していた。
「帰還困難区域」と常磐線一番列車を一緒にした写真を撮った理由として、「ニュースバリュー」を挙げる。単にめでたいだけではなく、線量の高さや、まだ帰れない人も多い状況が続く中での開通に、ニュース価値を見出したからだという。前日にロケハンもし、1枚で表現できる場所を探したという。大熊駅の近くだ。その場所には、共同通信社とテレビ局も来ていた。
いっぽう、福留さんはそのほかの動きも追っていた。当日のイベントの取材なども行い、翌日の地方版にも掲載した。『朝日新聞』全体としては、この年の3月11日に別刷りを出し、復興へと向かう東北の姿を全国に知らせようとした。
「まず優先したのは。帰還困難区域を通ることを伝えたかった、ということです」と福留さん。「この写真は東京本社版では夕刊で使われましたが、変な判断ではなかったと思います」という。
ツイッターでの論じられ方については、こう語る。「ツイッターでは一つの投稿を見る人も多い。あの一つだけを切り取られて見て批判されるのはおかしいと考えます」。また、トリミングしていないことや、中央部をアップするのがベストだったとも語る。「電車にクローズアップしたトリミングだったら理解してもらえたかもしれません」。
反響の背景として、「帰還困難区域」の看板や、策などが目立ち、細野豪志衆議院議員の反応があったと考えているとのことだ。看板や柵にピントを合わせたのでは? という声もあったものの、ピントは電車にあわせたという。露出は、絞りf4.0、シャッター速度1/320であり、ISO感度は1600。
「鉄道写真としてほめられたわけではないことはわかっているが、帰還困難区域を通っていることがわかっているのはここだということで撮影した」と説明する。
「ツイッターをやっているのは、記事を読むきっかけになってほしいからです」と語る福留さん。「面白がる人がいて、バズると乗ってくる。いっぽうで双方向性があったからこそ議論になった」と解説する。ちなみに、取材した2021年12月7日時点で、1911件のリツイート、1114件の引用リツイートがあったという。
「メディアとしてはいい面と悪い面を出すのは当然です。テレビは応援ムード、地元紙は水を差すようなことは載せないという中で、ちゃんと記録したことはよかった。撮影したことに何の後悔もしていません」。
そして、「福島の被害を見たり、メディアがそれを出したりすることを嫌っている。事実なのにその事実を見ずに、被害を小さく見せようとする意見があるのが根強い」と指摘する。
現地に通った経験の中で、「復興しているところとしていないところが混在しており、いい部分だけを見たがる。まだまだ帰れない人もおり、復興と言うには忍びない。もともとの街の姿とは全く違う」と考えている。
報道の限界として「多面的に伝えているつもりだが一つ一つは断片的にならざるをえない。そこから非難されることも多い」と考え、「立場がもともとあって、なんとなく納得するような事実を見て、そうでないものは批判するというふうに、写真の反響からは感じました」としている。「ふつうに暮らしているところも多いのに自分を否定された気になるというのはわかるのですが」とも述べる。
なお、福島県庁や福島県の市町村からのクレームはなく、現地の人から非難を受けたこともなかった。官公庁や公人からは、細野豪志衆議院議員の反応のみだった。
「『朝日新聞』は原発事故の被災地を攻撃したいのか」という声もあったが、実際の『朝日新聞』は2020年3月11日に「春へ 一歩ずつ」という別刷り特集を発行し、その4面に「常磐線 日常がまた一つ戻る」という見出しが立てられ。地元の人たちの声が多く掲載されていた。そこには喜びの声ばかりが掲載されていた。
決して、福島第一原発事故の被災地に心を寄せていないということはないのだ。
『朝日新聞』は、何かと世間で叩かれる新聞である。とくにネットでは。だが、ある種の人たちが叩くような報道ばかりしているかというと、実はしていない。ただ、反発の背景には、「復興が進んでいる」というムードが高まっており、その状況が多くの人に受け入れられているということがあると考えられる。地震や津波はともかく、福島第一原発事故も「天災」「しかたがない」と考え、それから徐々に日常を取り戻すという世界観が、一部の人たちに共有され、『朝日新聞』はそれを邪魔しているととらえられたのが、福島第一原発事故の被災地の被害を過小化するという方向へとムードがつくられている状況へとなっていったのではないか。
その背景には、「復興」ムードをつくる何かがあり、ムードや考えを多くの人が共有し、その一部がネット上で暴走し、被災地報道へのバッシングにつながっていったと考えられる。
「復興」についての考え方を多くの人に共有してもらううえで重要なのは、被災地の状況が回復していくことについての報道、そしてその報道を仕掛ける広報である。
筆者はふだん、鉄道関連の取材をしており、鉄道各社はなにかあるたびに報道公開やセレモニーなどを催し、そこに報道陣として行くことも多い。もちろん、新聞社やネットメディア、鉄道雑誌などがそこにやってくる。
そういう仕事をしていると、「広報」という職種が重要だとわかる。どう報じさせるか、というのがこの職種の重要な腕の見せ所なのだ。もちろん、東日本大震災や福島第一原発事故からの復興のようすを知らせるにも、「広報」という職種が活躍している。
「復興」が進んでいるというムード作りの中、常磐線全線復旧はどう演出されたのか、どんな意味を持たせたのかということが気になる。実際に復旧は行われ、それ自体はめでたいものではあるものの、それを演出し「復興」ムードにつなげていったというのがあるのではないか。ただ、ムードはつくろうとしたものの、新型コロナウイルスの感染拡大により思うようにできなかったのではないかとも考えられる。
2020年3月14日は、どのような式典が行われたのか。あわせて予定されていたキャンペーンには、どのようなものがあったのか。
最小限に終わった全線復旧式典
常磐線の全線運転再開は、地元紙『福島民報』『福島民友』(福島県には県紙が2つある。多くの県で1紙しかない中、2紙あるのは珍しい。『夕刊いわき民報』という地域紙もある)でも大きく取り上げられた。3月の紙面(国立国会図書館で閲覧した。地元の図書館の所蔵紙と版建てや地域面が異なる場合がある)を見ながら、その様子を記したい。
おそらく、地元としてはこれを大々的に行いたい、という思いはあっただろう。しかし、コロナ禍で制約は大きく、小さなセレモニーとなってしまった。
2020年で震災9年ということもあり、新聞は大きく復興の状況を取り上げた。とくに『福島民友』はその傾向が強い。3月6日には「つながる鉄路」と題し、一面サイズを丸々使い、どう再開するかを詳しく書いていた。
14日には『福島民報』『福島民友』に大きな広告特集が掲載された。地元自治体や企業、青年会議所やロータリークラブなどの各種団体が名を連ね、慶事として広告としても扱おう、という考えが感じされた。
往々にして、地域の慶事(元日の新聞や地元出身力士の幕内最高優勝の際などの新聞でこういった広告は紙面によく見られる)を地元紙の広告で取り上げる場合、地元密着型の組織などが広告を出す。市町村はいうまでもない。地域の企業は地域を相手に商売を行い。青年会議所やロータリークラブは地域の人たちが加入している。ここで広告を出した人たちは、地域の運命共同体の一員である。
翌15日の両紙(『福島民報』『福島民友』には夕刊は現在ない。また、福島県では全国紙の夕刊は配達されない)紙面では、常磐線の全線再開が報じられていた。『福島民報』では、「常磐線 9年ぶり全線再開」と一面に見出しがつけられていた。『福島民友』では、「常磐線 待望の全線再開」と一面に見出しがあった。
この日の『福島民報』によると、JR双葉駅では特急列車出迎え式が行われ、赤羽一嘉国土交通大臣、深沢祐二JR東日本社長、内堀雅雄福島県知事、沿線の首長らが11時9分着の下り特急列車を迎えたとのことだ。上野8時00分発の「ひたち」3号である。なおこの列車は11時10分に双葉駅を発車している。この式典にあわせ、多くの人が駅に詰めかけた。ホーム上では、標葉(しねは)せんだん太鼓保存会のメンバーが演奏し、特急を出迎えたという。当日の歓迎ムードがていねいに記事化されている。
『福島民報』によると、大野では横断幕をもって列車を歓迎し、浪江では下り一番列車に多くの人が乗っていたとの写真が掲載されていた。また双葉~浪江間では、帰還困難区域立ち入り禁止を示すバリケードがあることを示す写真も掲載されていた。
『福島民友』でも歓迎ぶりは大きく扱われていた。双葉駅で特急を出迎える人たちのようすが、社会面で取り上げられていた。
式典自体は最小限に終わったものの、地元の人たちは鉄道が戻ってくることを歓迎し、それを待ち望んでいたことがわかるような紙面になっていた。
東日本大震災から9年、むりやり全線開通させた感じもなくはないと筆者からは思えるものの、地元の人たちは心から喜んでいるという描き方がされている紙面ではあった。
この全線復旧を契機に、常磐線に多くの人が乗ってほしい、福島第一原発事故の被災地にも多くの人が来てほしい、という考えが起こっても、不思議ではない。「復興」には時間がかかるけれども、これをきっかけにその足掛かりになってほしいと思う人たちがいても、不思議ではない。
まだまだ復興している状況ではないけれども、全通した常磐線に乗りに来てほしいという考えは当然あり、キャンペーンも行われた。では、どんなキャンペーンだったのか。
コロナ禍で縮小ながらも行われたJR東日本水戸支社のキャンペーン
鉄道で何かあると、鉄道事業者はキャンペーンを行う。新しい列車の運行が開始されたり、新しい路線が開業されたりするときは、大々的に宣伝を行う。いっぽうで、列車や路線が廃止になるときも、記念のきっぷ(ほとんどが台紙のついた硬券である。硬券とは、券売機で発売されるきっぷとは異なり、窓口で扱われる厚い紙のきっぷで、券面は印刷されている。一般のきっぷとしては現在ではほとんど販売されていない)を発売したり、列車に感謝の意を表したヘッドマークをつけたりなどキャンペーンを行う。
今回の常磐線全線復旧でも、そうしたキャンペーンは行われるはずだった。記念のロゴをつくったり、駅構内に掲げるポスターをつくったりした。
ここにそのロゴやポスターを示しておく(JR東日本プレスリリース「常磐線(富岡駅~浪江駅間)の運転再開及びおトクなきっぷの発売等について」(2020年1月17日)より。
こういったものを駅に掲示するだけでも、大きな宣伝になる。駅は多くの人が通る場所であり、そこで人々に知ってもらうという効果は大きい。
実際に人に来てもらうためのことも行った。JR東日本の予約サイト「えきねっと」 では、常磐線全線運転再開にあわせ、「お先にトクだ値スペシャル(乗車券つき)」(50%割引)「お先にトクだ値(乗車券つき)」(30%割引)を期間限定で発売した。
また、記念の入場券も発売された。JR東日本のショッピングサイト「JRE MALL」内「鉄道あんてな」で、品川~仙台間の常磐線89駅の入場券がセットになった「常磐線全線運転再開記念入場券」を5,000セット限定で発売した。そのプレスリリース によると、「常磐線全線運転再開を幅広く知っていただくことを目的に」とある。
そして、観光による復興応援を目的に、「浜街道復興応援キャンペーン」を5月上旬から実施することになった。
だがこのキャンペーンは、延期となった。新型コロナウイルスの影響である。4月10日付のJR東日本プレスリリースで発表された。実際に行われたのは、最初の「緊急事態宣言」が終わり、感染拡大がひと段落した10月1日から11月30日までの期間である。主催はJR東日本水戸支社だ。TOKIOのリーダー・城島茂氏が「復興応援大使」として登場した。
内容は、浜街道謎解きラリー「浜街道謎解き 歴史街歩き」といったものや、「『浜街道手ぬぐい帖』で名所を巡りながらオリジナル手ぬぐいを作ろう!」といったスタンプ押印キャンペーン、各種セレモニーや仙台駅でのマルシェなどというものだった。
JR東日本水戸支社広報によると、このキャンペーンではポスターの掲出、パンフレットの配布、専用ホームページを開設したとのことだ。オープニングに合わせオープニングイベントを実施し、コロナ過で舞台を失った近隣の高校生によるオープンスペースによる演奏を行ったという。震災避難のために地方に散らばった和太鼓の演者の方々が再び集まり、伝統芸能を披露した。「地域施設の皆さまと連携し作成したYouTube動画 にて、安心・安全・笑顔・復興をPRしました」という。
福島県との協力体制については、定期的にキャンペーンに関する打ち合わせを行い、イベント実施計画などについて調整したという。「福島県とはコロナ禍において『密や人流の増加に配慮しながら、復興をPRするという方針』でキャンペーンを展開しました。また、未だ帰還困難区域も含む中での再開ということもあり、『祝』という文字は使用せず、つながったことにより一層復興が促進することを願う方にフォーカスすることに心がけました」と述べている。そう、まだ帰還困難区域が含まれていることも、認識しているのだ。
このキャンペーンはコロナ禍からの一時的な回復の中で行われた。どんな成果があったのか。「常磐線全線運転再開に合わせてこのキャンペーンを開催しました。コロナ禍の影響により開催時期の延期はあったものの、地域の復興・観光流動の創造に寄与することができたと考えております。キャンペーン期間中に浜通りを訪れたみなさまや地域のみなさまから、『JRとこのような活動ができると思わなかった』『ぜひこれからもたくさんの人を運んでください』といった声をいただきました。今後も地域の皆さまとともに、復興エリアのPRを図ってまいります」としている。
コロナ禍がいったん収まった中、福島第一原発事故被災地の現状にも配慮し、その中での復興を促進させるという方向でのキャンペーンだった。帰還困難区域が沿線にまだ残っているという現状とのジレンマ、コロナ禍で感染の再拡大が心配な中での難しさというのを配慮しつつ、できる限りのキャンペーンを行ったという見方が可能だろう。複数の面倒な要因がある中で、復興をアピールするという広報活動ができた、ということとなる。常磐線、とくに復旧したエリアに人に来てもらおうと、よく考えられた企画であるいっぽう、現地はどうなっているのかということも気になるものだった。そこで、常磐線の運転再開区間に乗りに行くことにした。
(次回は15日17時00分ころに公開)