【本能寺の変】黒幕説。明智光秀をそそのかし裏で暗躍していたのはだれなのか?
本能寺の変は、天下統一を目前にした織田信長が明智光秀に討たれると誰もが知る歴史的事件にもかかわらず、実行犯とされている光秀の動機が解明されていない、日本史最大のミステリーです。
どうする家康・第26回のぶらり富士遊覧の最後で、家康の口から【信長を殺す】というサプライズ発言がありました。次の日からさまざまなメディアで『本能寺の変は秀吉・家康黒幕説で行くのか?』と憶測が飛び交っていました。
そこで、今回は本能寺の変でも黒幕説について紹介して行きます。なお、本能寺の変についてはこれが定説・通説と言った物はないので、ここに書かれている事が絶対ではなく、一部自分の考えも入っています。こんな考察があるんだなと楽しんでもらえればと思います。
本能寺の変直前の織田家の状況
1582年3月に織田信長は武田氏を滅ぼし、信濃国・甲斐国と東に勢力を伸ばしました。同時期に北陸では柴田勝家が越後国の上杉氏とにらみ合い、中国地方では羽柴秀吉(豊臣秀吉)が毛利氏と対峙しており、総仕上げとして秀吉は信長に援軍を要請。信長は秀吉の要請を受諾し、明智光秀に出陣を命じます。
信長自身も出陣の準備をし、わずかな手勢を連れて京都の本能寺へと入りました。そして、1582年6月2日。秀吉の元へ出兵しているはずの明智光秀が、信長が滞在する本能寺を襲撃し、信長は焼け落ちる寺の中で自刃したとされています。
一方で徳川家康は武田攻めの論功行賞で駿河国の支配を許され、三河国・駿河国・遠江国の三国を有する大名に成長しました。また、本能寺の変があった日は、堺の街を少人数で遊覧中でした。
本能寺の変の黒幕説
一般的に有名なのは明智光秀が信長に恨みを持って犯行に及んだと言う【怨恨説】でしょうが、近年の研究では否定されつつあるようです。もちろん、怨恨説以外にも多くの仮説がたてられました。
その中の仮説から【明智光秀を背後で操り信長を討たせた黒幕説】にスポットを当てます。
簡単に黒幕と言って何人かの容疑者がいます。
- 豊臣秀吉
- 徳川家康
- 安国寺恵瓊・毛利氏
- 仏教勢力
- 朝廷・公家勢力
- 足利義昭
この仮説が立てられた背景には【明智光秀の行動があまりにも手際が良く用意周到に準備されていたのでは?】と見られるところにあります。
では、実際の本能寺の黒幕説について簡単に説明していきましょう。
豊臣秀吉(羽柴)による黒幕説
信長の死で一番得をしたのは秀吉なので、疑われるのも無理もありません。信長が死んだと言っても、織田家には柴田勝家・滝川一益と言った譜代の家臣たちがいました。いくら実力主義の織田家でも、自分の出生を考えるとトップになるのは難しいと考えた秀吉が、一発逆転を狙って行動を起こしたとしたらどうでしょう…
信長に援軍を頼んだタイミングで本能寺の変が起きたので違和感は感じます。もし事前に光秀と秀吉がと口裏を合わせているとしたら?
毛利との和睦の手際さとあり得ないスピードの【中国大返し】を考えると、事件をあらかじめ知ってたと思われても不思議ではありません。実際に、秀吉は京都方面にも多くのスパイを送っていたようで、早い段階で本能寺の変を察知していたようです。その後は、謀反の責任を全て光秀に押し付けて山崎の戦いで討ったとも解釈できます。
徳川家康が裏で一枚かんでいた説
家康の説では明智憲三郎さんの本能寺の変431年目の真実を参考にさせていただきます。
この本能寺の変は、織田信長が徳川家康を暗殺するために準備されたもので、本当なら信長ではなく家康が討たれるはずだったと言う説です。その実行役が明智光秀で信長から本能寺で家康を討つように命じられていました。
そして、家康に敵意を見せないためにわずかな手勢を連れて信長は本能寺に入ります。しかし、さまざまな理由※から光秀は、家康にすべてを打ち明けて信長を討つことに…
※理由は本能寺の変431年目の真実で考察されています。
一方で家康も武田氏の滅亡をキッカケに【信長にとって自分は邪魔モノだ】と、うすうす思っていたので光秀の信長暗殺計画に乗ることにしました。そして、光秀に援軍を出そうとしますが、秀吉の到着があまりにも早すぎたために断念します。こうした事から、本能寺の変の黒幕は家康だったと言う説です。
後の徳川家光の乳母・春日局が明智家の重臣・斎藤利三の娘という事を考慮すると、全く関係ない雰囲気でありません。この説が本当なら、家康の政治的ブレーンを務めていた南光坊天海は明智光秀だったと言う伝説も真実味が出てきますね。
安国寺恵瓊が毛利氏存続のために暗躍した説
武田氏が滅んだあと、信長の脅威となる大名は中国地方の毛利氏でした。この頃は、中国地方に派遣されていた秀吉と激闘を繰り広げられていましたが、まもなく、織田信長による総攻撃が始めることを知り、存亡の危機に直面していました。
そこで、毛利の外交僧だった安国寺恵瓊が毛利家存続のために、光秀や秀吉の全面協力を条件に信長暗殺をけしかけたのではないかと言う説です。後に秀吉の時代になった時に、安国寺恵瓊や毛利輝元は高待遇を受けています。秀吉が天下を取れたのは毛利氏や安岡寺恵瓊のおかげと考えれば納得のいく話です。
信長に恨みのある仏教勢力説
信長の石山本願寺や比叡山延暦寺への行いを考えると、あり得ない話でもありません。
特に、石山本願寺は最後まで信長に対して徹底攻勢を見せていたが、天皇の仲介による和睦で大阪から退去させられた経緯があります。その強い反感を持っていた本願寺勢力が、信長を亡き者と考えていたのならば、動機としては十分です。
朝廷と公家が動いた説
黒幕説では、この朝廷・公家勢力説が一番有力と言われています。この説は、安土城の発掘現場での天皇の住まいである清涼殿を模した御殿を造営していたことが調査で明らかになったことから浮上しました。要するに、天皇を安土に迎える構想があったと考えられます。
この構想が実現したら、公家勢力が【朝廷の実権が信長に握られ、自分たちの地位が危うい】と考えるのは可能性は十分あります。これによって【正親町天皇が近衛前久らを中心に明智光秀を取り込んで信長暗殺を仕掛けたのでは?】と考えられます。
しかし、その思惑は思いもよらぬ方向に行き、秀吉が天下を取るという結末を迎えます。その時、公家たちは五摂家しか就くことができない関白の職を出生が定かではない秀吉に与えます。この関白就任劇は【信長のような行動をさせないための公家側の懐柔策】と考えれば【朝廷・公家の黒幕説】はありえると思います。
足利義昭が幕府再興するために動いた説
京から追放された15代将軍・足利義昭は、信長に対して恨みを抱いていました。いつか信長を討ち、再び将軍として君臨する事を考えたのは当然です。また、義昭は光秀と古くから付き合いがあり、光秀は義昭を将軍として敬っていました。
そこで、義昭が光秀をそそのかして本能寺の変を実行させたという説です。
以上のような黒幕説も、古くからの提起されている仮説の一つにすぎません。それほどに、明智光秀の裏切りで始まる本能寺の変は謎につつまれており、新史料や発掘調査に伴い新たな説が浮上する可能性がある事件なのです。