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52歳まで現役を続けた総合格闘家、髙阪剛はなぜ「世界のTK」と呼ばれるのか?

清野茂樹実況アナウンサー
引退試合をKO勝ちで締めくくった髙阪剛(写真:東京スポーツ/アフロ)

今月17日、RIZINのリングで総合格闘家の髙阪剛が引退した。52歳まで現役を続け、引退試合で元極真世界王者にKO勝利した驚異の男は「世界のTK」と呼ばれてファンに愛された。この「TK」とは言うまでもなく髙阪のイニシャルだが、では「世界の」が付くのはどうしてなのか?新しい格闘技ファンに向け、髙阪の功績を改めて紹介しておきたい。

若手の頃から大型選手と対戦

髙阪がプロデビューしたのは1994年、まだ前田日明が現役の頃のリングスだった。当時は米国でUFCが登場したばかりで、「何でもあり」のルールで闘う格闘技が世界で少しずつ広がり始めた頃である。「フリーファイト」や「バーリトゥード」と呼ばれたこれらの大会はまだルールや階級が今のようにきっちり整備されていなかった。UWFの流れを汲むリングスも例外ではなく、体重無差別で素手とレガース姿で試合をしており、所属の日本人選手は新人といえども、ロシアやオランダ、東欧からやってくる大型外国人との対戦が当たり前であった。髙阪が初めて外国人と対戦したのはデビューから5戦目で、ブルガリアのソテル・ゴチェフ相手に敗れている。

リングスに足りないものを求めて

そんな髙阪が他の日本人選手と違ったのはヘビー級志向であったこと、そして、いち早く海外に目を向けたことである。転機となったのが1996年にリングスに参戦したモーリス・スミスとの出会いで、シアトルにあるスミスのジムへ行って、現地選手のレベルの高さを思い知る。「リングスにはロシアやブルガリア、豪州から選手がたくさん来ていましたが、米国が足りなかった。当時は米国からレベルの高い選手が出てきたし、その頂点であるUFCでチャンピオンを目指そうと思った」という髙阪はリングス所属のまま、拠点をシアトルに置いてUFC挑戦を決意。1998年当時、そんな行動を取った日本人の格闘家は髙阪以外には存在しなかった。

裸一貫での挑戦

「リングスには固定給ではなく外国人と同じ契約にしてもらって、日本に戸籍だけ残して渡米しました。現地で車の免許と住所を取得して、永住権を手に入れることを考えてUFCとリングスの試合に出ていました」と振り返るように、裸一貫での挑戦である。当時のUFCは運営会社が変わったことで成長を遂げ、次々と新しい選手が集まり始めていた変革期だ。通算戦績は6戦3勝3敗。惜しくもタイトルマッチにはたどり着けなかったものの、UFCのヘビー級でここまでの結果を残した日本人選手は現在に至るまで、髙阪ただ一人だ。ファンや関係者から「世界の」と呼ばれるようになったのは、こうした活躍によるものである。

渡米によって生まれた変化

髙阪の渡米後にリングスUSAが旗揚げし、国内ではKoKトーナメントが始まって世界中の強豪が参戦するようになった。「自分が米国で活躍することで、あいつが所属しているリングスとは何だ?と注目されるはず。そこから広がっていくものがあると思ったからです」という髙阪の見込みが的中した形だ。「世界最強の男はリングスが決める」というキャッチコピーが現実になったのは、髙阪の挑戦も大きな要因だったと思う。野球界では野茂英雄が作ったメジャーリーグへの道に大谷翔平という逸材が生まれているように、総合格闘技でも「世界のTK」が切り拓いた道にもっとスターが現れてもいいはずだ。そのときには髙阪剛の功績が改めて注目されることは違いない。

※文中敬称略

実況アナウンサー

実況アナウンサー。1973年神戸市生まれ。プロレス、総合格闘技、大相撲などで活躍。2015年にはアナウンス史上初めて、新日本プロレス、WWE、UFCの世界3大メジャー団体の実況を制覇。また、ラジオ日本で放送中のレギュラー番組「真夜中のハーリー&レイス」では、アントニオ猪木を筆頭に600人以上にインタビューしている。「コブラツイストに愛をこめて」「1000のプロレスレコードを持つ男」「もえプロ♡」シリーズなどプロレスに関する著作も多い。2018年には早稲田大学大学院でジャーナリズム修士号を取得。

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