明治40年大水害により移住した羊蹄山(蝦夷富士)周辺の開墾と富有柿
平成29年(2017年)の台風5号は、東に向きを変えても加速することはなく九州や四国をかすめて和歌山県北部に上陸し、各地の大雨を降らせています。
110年前の明治40年(1907年)8月にも、動きがゆっくりの台風が東海道を東進しています。
明治40年大水害(富士川豪雨)
明治40年(1907年)8月23~24日に、台風が東海道沖をゆっくり東進したため、近畿から東海地方、関東地方にかけて大雨となっています(図1)。
このため、利根川や多摩川、富士川など各地で堤防が決壊し、明治29年9月の洪水、明治36年7月の洪水とともに 「明治三大洪水」と呼ばれるほどの大洪水となっています。
中でも富士川の被害が甚大で、山梨県を中心に大きな被害が発生しました(図2)。
富士川流域の山梨県東部は、800ミリ以上の降水量となり、多くの山崩れや土石流で大きな被害がでました。甲府盆地では富士川水系の笛吹川や釜無川の堤防が、のべ125キロメートルにわたって損傷や決壊をしました。
山梨県の被害は、死者223人(全国の死者は436人)、住家被害1万2000戸、,浸水家屋1万9000戸などです。
北海道に移住
明治22年(1889)の水害で被災した人々が北海道に移住にして新十津川村を作った奈良県の住民と同様に、明治40年の水害での被害が甚大であった山梨県北都留、東山梨、東八代郡など、約3、000人の山梨県民が,北海道の南部にある羊蹄山の南麓から北東麓にかけての地域に集団移住をしています(図3)。
北海道への集団移住は、明治41~42年にかけての集団移住で農業等に従事したため、羊蹄山の麓には、倶知安町山梨とか、京極町甲斐など、山梨や甲斐という名称がつけられた地区や建物などが残っています。
集団移住した人々は心のよりどころとなったのは羊蹄山で、ふるさとの富士山に似ていることから蝦夷富士と呼んでいます。
しかし、苦労して農業をおこなったものの冷涼な気候に適用できず、災害が追い討ちをかけたため、多くの移住者は離農しています。
明治時代になって荒れた山林
甲明治40年に大災害となった原因として、江戸時代末期から養蚕業で繭を煮るための燃料として、あるいは蒸気機関の燃料として木材の需要が飛躍的に高まったことから、木材の乱伐がすすみ、山林の荒廃が進んでいたとの指摘があります。
また、明治22年に県の林野の7割が官有地化(御料林)され、これまで住民がおこなってきた山の利用が制限されたことから盗伐や放火・失火などが増え、結果として山林荒廃がより進んでいます。
明治40年大水害後、明治政府は治水工事の方針を、河岸の工事や河床の浚渫など、主に利水のために行う低水工事から、主に氾濫防止のために、最高水位を計算して堤防工事や放水路の整備などを行う高水工事に変更しています。
山梨県でも、国庫補助による高水工事が始まり、水害の遠因とされた山林の荒廃の荒廃については、明治44年3月に御料林が山梨県に下賜となり、恩賜県有財産として山梨県が管理しています。
果樹栽培で復活
西日本を中心に各地で栽培され、柿の王様と呼ばれることがある富有柿の産地に、山梨県笛吹市の石和(いさわ)町があります。石和町で果樹栽培が盛んになったきっかけが明治40年大水害です。
もともとの、石和町は米や麦の名産地でしたが、明治40年大水害によって笛吹川が氾濫し、土砂が1メートル以上も堆積しています。このため、米や麦の栽培が困難となったのですが、逆に、水はけが良くなるなど、果樹栽培には適した土地に変わっています。