パット・マクマナス、アイルランドのロックとママズ・ボーイズの原点を語る【後編】
ニュー・アルバム『Full Service Resumed』を海外で発表したザ・パット・マクマナス・バンドのパット・マクマナスへのインタビュー、全2回の後編。
前編記事では新作アルバムについて訊いたが、今回はその原点であるママズ・ボーイズの思い出、そしてアイリッシュ・ロックの先達シン・リジィやホースリップスとの交流について話してもらった。
<ホースリップスの音楽に恋に落ちたんだ>
●『Full Service Resumed』にはママズ・ボーイズ時代のナンバー「ベルファスト・シティ・ブルース」と、「ベルファスト・ボーイ」が収録されています。ベルファストという都市からどのように影響されましたか?
俺が生まれ育ったのは北アイルランドのファーマナ県にあるデリーリンという小都市だった。ザ・トラブルズ(北アイルランド紛争)の真っ只中だったエニスキレンの近郊だったんだ。路上には軍隊がいて、バリケードがあった。銃で頭を撃たれたり、家を爆弾で吹っ飛ばされた友人もいた。実はベルファストはかなり距離があって、あまり行ったこともなかったけど、ベルファストの名前を挙げることで紛争について世界の人々に知ってもらいたかった。でも歌詞で歌われていることは俺自身の実体験を元にしたものだよ。もちろん普通の子供のようにサッカーをしたり、楽しいこともあったけど、ザ・トラブルズは常に俺たちの心に暗い影を落としていたんだ。
●その一方で、ベルファストはヴァン・モリスン、ゲイリー・ムーア、ロリー・ギャラガー率いるテイスト、エリック・ベルなど数々のミュージシャンを育んできました。そんな音楽シーンから影響を受けましたか?
俺が育ったのはベルファストの北西100マイルの地方小都市だったから、音楽シーンに触れることは出来なかった。11、12歳の頃は伝統的なケルト音楽が好きで、ロックはほとんど聴いていなかったな。十代半ばになってゲイリー・ムーアやロリー・ギャラガーの音楽に傾倒したけど、彼らは俺より上の世代だったし、同じ“シーン”という感覚はなかったね。俺たちがライヴを見てこれだ!と思ったのはホースリップスだった。彼らはロックとフォークを融合させた音楽をやっていて、“ゴッドファーザー・オブ・ケルティック・ロック”的な存在だったんだ。当時俺は両親と一緒に地元のパブでフォーク・ミュージックを演奏していたけれど、姉に「ライヴが終わったら近所のパブにホースリップスを見に行かない?」と誘われた。それで付いていったら、彼らの音楽に恋に落ちたんだ。アイリッシュ・ミュージックが根底にあったけど、ギターはエリック・クラプトンみたいだし、ロックの要素もあった。一瞬でハマったんだ。その頃はシン・リジィもゲイリーも知らなかったけど、リアルに突き刺さってきた。『ハッピー・トゥ・ミート、ソーリー・トゥ・パート』(1972)は名盤だね。
●音楽に目覚めて、都会に行こうと考えませんでしたか?
クラシック音楽を少しばかりかじっていたから、アルスター・ユース・オーケストラからの誘いもあったんだ。でも紛争のことがあったし、両親が「毎週土曜日にベルファストに行くのは危険だから」って難色を示したんだ。それで仕方ないから弟たちとロック・バンドを結成することにしたんだよ(笑)!その後、ホースリップスの前座を務めたりして、友人になることが出来たよ。彼らと出会わなければ、今でも実家の干し草小屋でプレイしていたかも知れない。
●ママズ・ボーイズのアルバム『パワー・アンド・パッション』(1985)のイギリス初回盤LPにはボーナス・インタビュー・ディスクが付いていましたが、あなたがホースリップスを絶賛していて、十代の私(山﨑)はそれを聴いて初めて彼らの存在を知りました。
うん、ホースリップスは決してメインストリームのバンドではないけれど、もっと世界で知られるべきだ。もし君の興味を惹くことが出来たとしたら、俺の目論見は成功したということだよ。彼らは現在でも活動していて、今度一緒にレコーディングするんだ。君のことを伝えておくよ(笑)。
<シン・リジィはバンド全員が火を噴く勢いだった>
●ママズ・ボーイズは1983年、シン・リジィの解散ツアーでオープニング・アクトを務めたことで知名度を上げましたが、それはどのような経験でしたか?
シン・リジィはアイルランドの国民的ロック・バンドだったし、彼らと一緒にツアーするのは夢のような気分だった。フィル・ライノットは素晴らしい人物だったよ。彼にはふたつの顔があった。ロック・スターの顔と、普通の人間の顔だ。俺たちと付き合うときは、すごく地に足の着いた人だった。ママズ・ボーイズの最初期、アイルランド西部の出会い系パーティーでライヴをやることになった。そうしたら何と、同じパーティーにフィルのソロ・バンドが出演していたんだ。確かヘッドライナーはチーフタンズだったかな、豪華な顔ぶれだよね。フィルは当時の俺たちのマネージャーだったジョー・ウィンと知り合いで、「良いバンドじゃないか」と褒めてくれたんだ。「月曜日にシン・リジィのマネージメント事務所に電話してくれ。一緒にツアー出来るかも」と言って、実際にサポートに起用してくれた。ママズ・ボーイズはそれでロック界の注目を集めることが出来たし、フィルには感謝している。ツアーではシン・リジィのショーを毎晩ステージ脇から見て、あらゆることを吸収したよ。フィルは最高のステージ・パフォーマーで、バンド全員が火を噴く勢いだった。当時新加入ギタリストのジョン・サイクスも凄かったよ。
●ダブリン郊外のフィルの母上が住んでいた家“ホワイト・ホース”にフィルのレコード・コレクションが置かれていますが、ママズ・ボーイズのアルバム『Official Bootleg』がありました。
それは光栄だな!フィロミナさん(フィルの母上)の家には行ったことがあるけど、レコード・コレクションは見たことがなかった。フィルはいつもいろんな音楽を聴いていたよ。ダブリンで毎年行われているフィルへのトリビュート・コンサート“ヴァイブ・フォー・フィロ”には数回出演したことがあるんだ。ギタリストのブライアン・ロバートソンとも親しくなったよ。ブライアンと初めて会ったのは、彼がワイルド・ホーセズにいた頃だった。彼らのベルファスト公演のサポートをママズ・ボーイズがやったこともあったよ。“ヴァイブ”で会ったとき、ブライアンは俺を覚えていなかったけどね。その頃、ヴィヴィアン・キャンベルとも知り合ったんだ。彼は当時ベルファストでスウィート・サヴェイジというバンドでやっていたけど、その後にディオ、ホワイトスネイク、デフ・レパードという大物バンドに加入したね。N.W.O.B.H.M.(ニュー・ウェイヴ・オブ・ブリティッシュ・ヘヴィ・メタル)でレコード会社と契約出来た北アイルランドのバンドはママズ・ボーイズだけだったんだ。地元で人気があったスウィート・サヴェイジすらも自主制作シングルしか出すことが出来なかったんだよ。
●1985年・1986年とゲイリー・ムーアのツアー・サポートを務めましたが、どんな思い出がありますか?
ゲイリーは物静かな人で、ちょっと近づきがたい雰囲気があったんだ。俺がビビっていたのかも知れないけどね(笑)。だから挨拶はしたし、毎晩彼のショーは見ていたけど、親しくなるには至らなかったんだ。ゲイリーが出したレコードは全部大好きだよ。ハード・ロック期もブルース期も好きだし、初めてのリーダー・アルバム『グラインディング・ストーン』(1973)も聴き込んだ。彼がギタリストとして最高峰であることは明らかだけど、ソングライターとしても超一流だったよ。一番のお気に入りは『バック・オン・ザ・ストリーツ』(1978)かな。曲単位で好きなのは、シン・リジィ時代の「ブラック・ローズ」(1979)だけどね。ホースリップスもそうだけど、ケルト音楽とロックを融合させた名曲だよ。もちろん「エンプティ・ルームズ」も素晴らしいし、コロシアムIIも凄い。ゲイリーはすべてが最高だったね!
●その後、ゲイリーと話す機会はありましたか?
ゲイリーが亡くなる3ヶ月ぐらい前に電話で話したんだ。友達から電話があって、「今、誰といると思う?」と言って、替わってくれた。それがゲイリーだったんだ。彼は『バッド・フォー・ユー・ベイビー』(2009)を出したばかりで、「素晴らしいですね」と言ったら、「なあに、あんなもの」と謙遜していた。彼と話すのは、一緒にツアーをしたとき以来だったから、シュールな気分だったよ。
●ママズ・ボーイズがN.W.O.B.H.M.の一部だという実感はありましたか?
なかったなあ(苦笑)。N.W.O.B.H.M.は海を隔てたロンドンやニューカッスルの話だった。他に知り合いのバンドもいないし、地元に“シーン”なんてものはなかったよ。せいぜいベルファストにスウィート・サヴェイジがいた程度だったけど、俺たちは滅多に都会には行かなかったからね。音楽雑誌も手に入らなかったから、そういうトレンドが起こっていたこともよく判らなかったよ。ママズ・ボーイズがイギリス本土に進出したのは1983年で、ブームはもう一段落していた。多くのN.W.O.B.H.M.バンドのように、俺たちもディープ・パープルやバッジーから影響を受けてきたことは事実だ。でも俺たちがやっていた音楽はアイアン・メイデンやデフ・レパードとはまったく異なっていた。レコード会社やマスコミがいろんなバンドを十把一絡げにして売ろうとしたのがN.W.O.B.H.M.だったんだよ。
●ママズ・ボーイズはグラム・ロックで知られるスレイドの「クレイジー・ママ Mama Weer All Crazee Now」とパンク・ロックのシャム69の「イフ・ザ・キッズ・アー・ユナイテッド」を1984年に前後してカヴァーしましたが、どちら側に親近感をおぼえていましたか?
グラムともパンクともメタルとも等距離で、どちらも好きだったよ。俺たちはどこにも属さない、ただのロック・バンドだった。「クレイジー・ママ」は俺たちのバンド名と引っかけたネタでもあったけど、元から大好きだった曲だ。パンクはシャム69やザ・クラッシュ、セックス・ピストルズも生々しくて好きだったけど、どちらかといえばリッチー・ブラックモアや初期クイーン、ゲイリー・ムーアやロリー・ギャラガー、フランク・マリノのような演奏能力のある音楽に傾倒していた。フランク・マリノとウリ・ジョン・ロートは1970年代と1980年代のロック・ギターを橋渡ししたキーパーソンだ。彼らがいなかったら、イングヴェイ・マルムスティーンやジョー・サトリアーニのようなプレイヤーは登場しなかっただろう。ウリとはヨーロッパを一緒にツアーしたことがあるんだ。ジャムもしたし、友達になったよ。最近ウリのバンドでリズム・ギターを弾いているアリ・クリントンは俺のギターの教え子だったんだ。
●サマンサ・フォックスの「タッチ・ミー」(1986)でギターを弾いたのは、どんな経緯で実現したのですか?彼女と会いましたか?
ママズ・ボーイズと同時期に、ちょうどサマンサが同じロンドンの“バッテリー・スタジオ”でレコーディングしていたんだ。彼女は大衆紙“ザ・サン”のページ3ガール(注:同紙では3面にセクシーグラビアが載っていた)ですごく有名だったんで、みんなで見に行った。そしたらプロデューサーに「ちょうど良いところに来た。ギターを弾いてくれる?」って言われたよ。「サマンサは?」って訊いたら「今日は来ない」と言われてガッカリしたのを覚えている。その後に知り合ったけどね。彼女とママズ・ボーイズはどちらも“ジャイヴ・レコーズ”と契約していたから、クリスマスパーティーで会ったんだ。「『タッチ・ミー』でギターを弾きました」と言ったら「あら、それはラヴリーね」と言っていたよ。その後、彼女は『ジャスト・ワン・ナイト』(1991)というアルバムで、ママズ・ボーイズの「勝利へのミラクル Waiting For A Miracle」をカヴァーしているんだ。「スピリット・オブ・アメリカ」と改題して、ジューダス・プリーストのグレン・ティプトンがギター・ソロを弾いているよ。このアルバムはそれほどヒットしなかったけど、自分の曲でグレンがギターを弾いてくれたことが光栄だった。
●2021年の年末から2022年の予定を教えて下さい。
2021年内は単発でライヴを行っていくよ。パット・マクマナス・バンドとしてだけでなく、週2回のペースでケルト音楽のライヴもやるんだ。ギターは弾かずにヴァイオリンだけを弾いているよ。2022年の2月から3月にかけてイギリスのツアーをする予定だ。もちろん世界の情勢がどうなっているかにもよるけどね。俺は長年ツアー人生を送ってきたし、今はひと休みという感じかな。『Full Service Resumed』の「Rock You」の歌詞には「あらゆる所に行った、日本からブラジルまで」という一節があるんだ。俺のキャリアにおいて日本に行ったのは最高のハイライトだったんだ。ツアーを再開して、日本に戻れる日が来るのを楽しみにしているよ。
【最新アルバム】
ザ・パット・マクマナス・バンド
『Full Service Resumed』
英The Store For Music / Angel Air
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