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関東のお殿様・北条氏の人気の秘訣は民のために善政を敷いた北条早雲の手腕にあった!?

歴ブロ歴史の探求者

幕府の役人から相模一帯を治めるまでにのし上がり、下剋上の代名詞となったのが北条早雲。その後、豊臣秀吉の小田原征伐まで北条氏は、100年・5代にわたって関東に君臨しました。

もう一人、下剋上の典型的な人物として斎藤道三がいます。出生には諸説あるが、1554年に美濃国守護・斯波氏を追放し大名にまでのし上がり美濃のマムシと呼ばれています。

二人とも無名から大名までのし上がりましたが、北条氏は約100年続いたのに対して、斎藤道三は息子に討たれ、支配していた美濃国は最終的に織田信長が治めることになり斎藤氏は滅亡しています。

1590年に北条氏も秀吉に滅ぼされ、旧領は徳川家康が後釜として支配します。しかし、民衆は心から北条の殿様を慕っており、家康は支配にとても苦労したと言われています。

今回は、なぜ北条領の民衆は心から北条氏を慕っていたのかを考えてみます。

関東の北条推しは鎌倉時代から?

イメージ:源頼朝
イメージ:源頼朝

関東地方の北条推しは鎌倉時代の執権政治に起因していると考えます。

執権政治で代々執権を務めていたのが北条氏。鎌倉幕府設立以降の政権運営は、時代を通してほとんど北条氏主導で動いています。

室町幕府が成立すると鎌倉府をおいて足利氏が関東統治を行いました。ところが、観応の擾乱をはじめ鎌倉公方や関東管領などが権力争いに明け暮れ、関東は早雲が登場するまで情勢が荒れた状態でした。

領民からしてみれば戦のない平和な鎌倉時代を治めていた北条氏を推すのは自然の成り行きだと考えます。そんな事情を知っていた早雲・氏綱親子は『北条』のネームバリューを利用しようと改名を画策。実現するのは父・早雲没後でしたが、朝廷からも認められて早雲を初代とする後北条氏※が誕生しました。

※執権北条氏と区別するために【後北条氏】と呼ばれる事もあります。

北条早雲の小田原の町づくり

早雲は小田原城を拠点に領地を治めます。

町づくりの中で彼の産業の振興と城下町における商人の保護は当時の戦国大名の中でも群を抜いていました。

奉行所を置くにあたり、奉行を武士ではなく商人や特別技能者が命じられました。

そして、戦乱に身の安全を確保するために城下町を城壁や土塁で囲い、全国の商人たちに小田原へ来るように呼びかけました。

日本の城下町のほとんどは、城壁内に領民たちが住む町を入れることはありません。そのため、敵がせめてくれば町や村が焼き討ちにあいました。そこで町ごと城壁で囲うことで『小田原の殿様は商人や庶民の町まで石垣で守ってくれるそうだ』と評判になり、徐々に小田原城下内に人や商人たちが増え始め、商家が密集し、色々な特産物が並ぶ店が出来ました。

人々の定住が進むと町に愛着が湧き、自主的に町をきれいにする取り組みが起こるようになりました。こうして、小田原はきれいな町になったそうです。

織田信長は商人確保のために【楽市楽座】で誘致企業の優遇措置を講じていましたが、北条早雲は安全保障することで商人を確保したと言えます。

後北条氏5代が敷いた善政

策略に優れ下剋上を成し遂げたことから、松永久秀と共に『梟雄』とも呼ばれている早雲ですが、国を治め始めると善政を敷いていました。

当時、大名たちが民に課す税負担は五公五民や六公四民が普通でした。しかし、相模では四公六民と税率を低く設定しています。また、疫病が流行ると医療活動を行ったりと、とにかく領民のために政治を行いました。

イメージ:北条氏康
イメージ:北条氏康

こうした政治手腕は子や孫たちにも受け継がれ、北条氏康の『公事赦免令』では…

  • 減税対策
  • 二重課税の制限
  • 徳政令
  • 目安箱の設置(徳川吉宗も模倣したとも)

を定め、徳政令はまず下層農民から実施して弱者が救済されるように配慮がなされていました。搾取が当たり前で泣き寝入りするしかなかったこの時代で、このような善政が行われれば領民の心がついていかないわけがありません。

難攻不落の城・小田原城

イメージ:小田原城
イメージ:小田原城

【小田原城=難攻不落】と言うのは有名な話で、公式のホームページでも『小田原城・難攻不落の城』とアピールされています。

先述した通り小田原城は町機能が城壁内にある事から、籠城戦に持ち込めばある程度自給自足が可能で、あとは士気を下げないようにするだけでした。一方で攻め手は時間が掛かるほど消耗してしまいます。

武田信玄と上杉謙信も大軍を引き連れて小田原城へ進行していますが、攻めきれずに撤退を余儀なくされています。信玄と謙信が撤退した噂が広がり、小田原城が難攻不落の城と呼ばれるようになりました。

北条早雲の民生重視と商人保護・育成の政策は、人生の大半を過ごした放浪生活で得たものでした。その経験を小田原で実践し、領民を支配するのではなくお殿様とみんなで幸せを分かち合う方針を取っていました。この方針は氏綱以降にも忠実に受け継がれ、1590年の小田原征伐まで続けられました。

秀吉により北条氏の旧領を引き継いだ徳川家康は領民支配に最初は苦労したそうです。しかし、北条氏の政策を参考に上手く取り入れた家康は関東の統治に成功し江戸幕府設立の礎になったのは言うまでもありません。

※参考文献:小和田哲男『教養として戦国時代』PHP新書2023年

歴史の探求者

歴史好きが講じて歴史ブログを運営して約10年。暗記教科であまり好きでないと言う人も少なくないはずです。楽しく分かりやすく歴史を紹介していければと思います。歴史好きはもちろんあまり好きではない人も楽しめるような内容をお届けします。

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