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レッドソックスが地元開幕戦。2004年V戦士が集結、稀代のナックルボーラーを偲ぶ。

一村順子フリーランス・スポーツライター
4月9日 フェンウェイ・パーク

 レッドソックスは9日(日本時間10日)、フェンウェイ・パークの本拠地開幕戦(対オリオールズ)に先立ち、セレモニーを行い、功労者2人の死を偲んだ。昨年10月1日に脳腫瘍のため、享年57歳の若さで死去した通算200勝ティム・ウェイクフィールド投手と、今月2日に78歳で世を去ったラリー・ルキーノ元CEO。左翼の名物「グリーン・モンスター」の左翼線寄りに右腕の背番号「49」、中堅側にルキーノ氏の頭文字「L・L」のプレートが掲げられ、大型ビジョンに在りし日の姿が映る中、黙祷が捧げられた。

 試合前、コーラ監督は稀代のナックルボーラーについて、「2度も世界一になっただけでなく、引退後も慈善活動に尽力した特別な人格者だった」と2004年、07年の2度のワールドシリーズ優勝に貢献し、積極的な慈善活動で地域に貢献した功績を振り返った。そして、「皆に愛されたが、苦手に思った新人もいただろう。チームの規律、身だしなみには、厳しかったからね。彼は、大リーガーとしての誇り、価値観を大切にしていた」と付け加えた。

 思い出したのは、2007年の開幕直後。松坂大輔投手がレ軍に入団した1年目だ。登板翌日のルーキーが、球拾いをしなかった、と叱ったことがある。当時のレ軍は「先発投手は、投げた翌日の練習で内野の球拾いを担当する」という決まり事があった。松坂氏の名誉のために付け加えると、決してサボった訳ではなく、ルールがちゃんと本人に伝えられていなかった。一方、松坂がゴルフ好きだと知ると、オフの日にはラウンドに誘った。規律正しく、面倒見がいい、投手陣のリーダーだった。

 夫の後を追うように5ヶ月後に他界したステーシー夫人との間には2人の子供がいる。当時、幼かった息子のトレーバー君は、父に連れられて時々クラブハウスに姿を見せた。そんな時も「まずは、挨拶だ」と選手1人1人に挨拶することを厳しく教えていた。

 ある時、雑談で年齢の話になった。私と同じ年の生まれだと判ると、「何月生まれ?」と聞いてきた。私の方が彼より7ヶ月早い1月生まれだと言うと、咄嗟に帽子を脱いで「君はセンパイだ」。どこで学んだのか「先輩」という日本語と、日本の”先輩&後輩の文化”を知っていた。同年代だから、と言っても「たとえ7ヶ月でも、センパイはセンパイだ」と言い張った。それからは、会うと、ペコリと会釈するのだった。

 最後に会ったのは、亡くなる数ヶ月前。球場のエレベーターで遭遇した。「Jimmy Fund」(小児がん撲滅を目指す球団基金)の活動に忙しそうで、8月末の基金イベントの準備に意気込んでいた。病気だとは夢にも思わなかった。レ軍入団の95年以来、球団基金だけでなく、重度の難病を抱える子供を対象にした「Make A Wish」基金の活動にも精力的で、2010年、社会貢献に尽力した選手に贈られる「ロベルト・クレメンテ賞」を、レ軍選手として初めて受賞した。2012年にフェンウェイ・パークで行われた引退式では、難病を克服し、大人になったかつての患者さんや、今なお病魔と戦う子供たちがサプライズで駆けつけ、右腕は感激のあまり大粒の涙を流した。 礼儀を重んじ、情に厚く、心根の優しい人だった。

 「バンビーノの呪い」を解いて86年ぶりの世界一を達成してから20周年。この日は2004年の優勝メンバーが集結、セレモニーに華を添えた。半年の間に両親を失った2人の子どもは、すっかり大きくなっていた。V戦士たちが寄り添うように囲む中、愛娘のブリトニーさんが始球式を行った。親交が深かったジョニー・デーモン氏はワールドシリーズ・トロフィーを担いで始球式を見守り、「彼は、本当のレジェンドになった」と感慨深げに語った。レ軍は今季、背番号「49」の喪章をユニフォームに付け、シーズンを戦う。 

フリーランス・スポーツライター

89年産經新聞社入社。サンケイスポーツ運動部に所属。五輪種目、テニス、ラグビーなど一般スポーツを担当後、96年から大リーグ、プロ野球を担当する。日本人大リーガーや阪神、オリックスなどを取材。2001年から拠点を米国に移し、05年フリーランスに転向。ボストン近郊在住。メジャーリーグの現場から、徒然なるままにホットな話題をお届けします。

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