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路線や方向性を論じない日本、南米か欧州か。個人か組織か。対立軸が鮮明だったかつてが懐かしい

杉山茂樹スポーツライター
(写真:アフロ)

 ドイツ戦を9日に控えた日本代表だが、ドイツに日本はお世話になってきた過去がある。スペインでもなくイタリアでもない。フランスでもイングランドでもない。日本の現在はドイツ抜きには語れない。それを象徴する人物は1964年東京五輪で日本を指導者としてベスト8に導くなど、日本代表サッカーの発展を願いその礎を築いたデットマール・クラマーさんだ。

 別名、日本サッカー界の父。日本サッカー界初の外国人指導者にして、バイエルンを後に(1975-76シーズン)チャンピオンズカップ優勝に導いた名将である。欧州一に輝いた監督が、日本で采配を振った例はこれが最初で最後だ。

 W杯で世界一に輝いた監督はいる。2002年日韓共催W杯でブラジル代表を率いたルイス・フェリペジュビロだ。しかし磐田の監督を務めた期間は数か月に過ぎなかった。名古屋グランパスの成績を劇的に上昇させたアーセン・ベンゲルも、アーセナルを欧州一に導くことができなかった。まさに偉大な「父」であるクラマーさんは、日本がドイツに勝利した先のカタールW杯の戦いを、どう見ただろうか。

 当時のバイエルンのライバルチームだったボルシア・MGの監督で、後にバルセロナの監督も務めたヘネス・バイスバイラーも、日本と接点があった指導者の1人だ。日本代表や三菱重工で監督を務めた二宮寬さんと親交があり、その伝で日本選手を留学生として迎え入れた。

 そんなバイスバイラーに目を付けられたのが奥寺康彦さんで、欧州でプレーした初の日本人選手となった。ケルン時代にはチャンピオンズカップ準決勝に進出。奥寺さんはそこでゴールも決めている。

 

 ドイツと双璧の関係にあるのがブラジルだ。口火を切ったのは日系ブラジル人だ。日本リーグ時代、ネルソン吉村(吉村大志郎)、ジョージ小林、セルジオ越後、ジョージ与那城、ラモス瑠偉等々が来日。助っ人としての役割を果たした。Jリーグ時代になるとジーコを皮切りに、ドゥンガ、ジョルジーニョ、レオナルド等、ブラジル代表選手が続々と来日。Jリーグの普及発展に貢献した。

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スポーツライター

スポーツライター、スタジアム評論家。静岡県出身。大学卒業後、取材活動をスタート。得意分野はサッカーで、FIFAW杯取材は、プレスパス所有者として2022年カタール大会で11回連続となる。五輪も夏冬併せ9度取材。モットーは「サッカーらしさ」の追求。著書に「ドーハ以後」(文藝春秋)、「4−2−3−1」「バルサ対マンU」(光文社)、「3−4−3」(集英社)、日本サッカー偏差値52(じっぴコンパクト新書)、「『負け』に向き合う勇気」(星海社新書)、「監督図鑑」(廣済堂出版)など。最新刊は、SOCCER GAME EVIDENCE 「36.4%のゴールはサイドから生まれる」(実業之日本社)

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