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「四日市公害」訴訟判決から50年 教科書では分からない当時の空気と今日的意義

関口威人ジャーナリスト
現在は夜景が名物となっている三重県の四日市コンビナート(写真:イメージマート)

 戦後の高度経済成長期、三重県四日市市の石油化学コンビナートから出るばい煙によって住民にぜん息などの健康被害が出た「四日市公害」。住民側がコンビナート企業を訴え、勝訴した歴史的な判決から今年7月24日で50年となる。

 その節目に合わせて、これまでの運動や現在進行形の課題などをまとめた書籍の出版記念会が、16日に地元の四日市市内で開かれた。

節目に合わせて地元の動きを一冊にまとめる

四日市公害訴訟判決50年の節目に合わせ、自身も関わった反公害運動や内外の動きをまとめた伊藤三男さん(7月16日、筆者撮影)
四日市公害訴訟判決50年の節目に合わせ、自身も関わった反公害運動や内外の動きをまとめた伊藤三男さん(7月16日、筆者撮影)

 書籍のタイトルは『青空のむこうがわ 四日市公害訴訟判決50年―反公害を語り継ぐ』。著者は市民グループ・四日市再生「公害市民塾」の伊藤三男さん(76)だ。

 伊藤さんは四日市市に隣接する鈴鹿市の生まれで、大学卒業後に県立高校の国語教員となって公害問題について知る。すでに裁判は1967(昭和42)年から始まっていたが、伊藤さんはその4年後にできた「四日市公害と戦う市民兵の会」に加わり、機関誌『公害トマレ』の発行を担った。

 四日市公害の反対運動には、原告のぜん息患者や弁護士のほか、労働組合に属しながら患者の苦しみを徹底的に記録し、後に公害の「語り部」となる澤井余志郎さんがいた。彼らと比べると伊藤さんは10歳近く年下で、当初は「若輩者として、周辺をウロウロしているだけだった」と笑って振り返る。

 しかし、伊藤さんは判決をはじめ、その後のさまざまな動きを地元で見届け、1997(平成9)年に「市民塾」を澤井さんとともに立ち上げた。活動の中で膨大な公害資料を整理、保存して継承する作業に当たったが、判決50年を迎えるタイミングと「コロナの自粛期間で時間ができた」ことから、あらためて後世に残すためまとめたのが今回の一冊だという。

歴史的勝訴も「市民の関心は高いと言えず」

当時「公害マスク」と呼ばれたマスクをつけた地元小学生の写真。市内で開かれている「四日市公害判決50年展」の展示(7月16日、筆者撮影)
当時「公害マスク」と呼ばれたマスクをつけた地元小学生の写真。市内で開かれている「四日市公害判決50年展」の展示(7月16日、筆者撮影)

 50年前の判決当時、四日市は蒸し暑かった上に、津地裁四日市支部の前はテントを設営して張り込むマスコミや各地の支援者ら1000人以上の人であふれ、さらに熱気を帯びていた。午前9時半過ぎに判決が出ると「バンザイ」の歓声が響き渡り、各新聞の夕刊には「原告勝訴」の大見出しが躍った。

 判決は原告の健康被害と工場から排出されるばい煙に因果関係を認め、被告のコンビナート企業6社に約8800万円の賠償金支払いを命じた。

 すでに富山のイタイイタイ病、新潟の新潟水俣病でも原告が勝訴。翌年に控えた熊本の水俣病訴訟にもつながる重要な判決だった。「誰が付けたか『四大公害訴訟』は教科書にも掲載され一躍『四日市』は世界に知れ渡ることとなった」と伊藤さんは記す。

 ただし、他地域に比べて「燃え上がるような住民運動は少なく、四日市の街全体も市民の関心は高いとは言えなかった」とも指摘する。

集めた公害関連資料「公は見向きもしなかった」

裁判での原告の主張や判決内容についてまとめている「四日市公害判決50年展」の展示(7月16日、筆者撮影)
裁判での原告の主張や判決内容についてまとめている「四日市公害判決50年展」の展示(7月16日、筆者撮影)

 もともと提訴時の原告数は9人で、当時の公害病認定患者数376人に比べると少なかった。しかも全てぜん息で入院中の患者である上、漁師や主婦など法廷に縁の薄い人たちだった。裁判は弁護団主導で進められ、その弁護士たちもほとんどが四日市ではなく隣県の名古屋市を拠点にしていた。

 実は、私も2000年から約3年半、地方紙の四日市支局で記者として働き、02年の「判決30年」の節目には連載記事の執筆を担当した。そうした取材の中で、まだぜん息に苦しんでいた患者や、激しい反公害運動を経験した人たちと向き合う一方、何事もなかったかのようにそっけない街や市役所の反応にギャップと温度差のようなものを感じることは少なくなかった。

 伊藤さんは判決当時からそれを痛感していたわけだが、その後もどれだけ資料を集めて発信しても「公の機関からは見向きもされなかった」ことが、今回の書籍出版の原点にあると明かす。

エネルギー危機や原発事故に生かすべき教訓も

四日市市立博物館(そらんぽ四日市)4階では8月28日まで「四日市公害判決50年展」が開かれている。同館2階は公害関係の常設展示施設「四日市公害と環境未来館」となっている(7月16日、筆者撮影)
四日市市立博物館(そらんぽ四日市)4階では8月28日まで「四日市公害判決50年展」が開かれている。同館2階は公害関係の常設展示施設「四日市公害と環境未来館」となっている(7月16日、筆者撮影)

 ただ、一つの明るい転機は2015(平成27)年、市立博物館内に「四日市公害と環境未来館」が開館したことだ。公害の歴史資料館の設置は、澤井さんが1995年に市へ正式に要望したが、当時は「無視された」という。そして、裁判同様に「市民の側から広範な運動として展開されてこなかった」実情もあると伊藤さん。20年の時を経てようやく施設が実現したのは、ひとえに澤井さん個人の粘り強さと、2008年から市長を2期8年間務めた田中俊行・前市長の「個人的な資質」によるものだったと伊藤さんはみる。

 環境未来館は博物館の2階だが、4階の特別展示室では現在、8月28日まで「四日市公害判決50年展」が開かれ、裁判関連を中心とした資料があらためて展示されている。伊藤さんは開館以来、同館の語り部・解説員となっている。

 こうした経緯や思いを書き綴った伊藤さんは、出版記念会でこう呼び掛けた。

 「今エネルギー危機が叫ばれているが、我々が無尽蔵にエネルギーや食料を欲しがる限り、公害はある。先人たちの言葉は古びていないとあらためて実感する。四日市公害判決では、(特定の集団を対象として、その原因や発生条件などを統計的に調べる)疫学調査を当時の裁判官が認めた。それは今の福島の甲状腺がんを巡る裁判などに生かされているとは言えない。そうした観点から判決の中身を検討することには、現代的な意味がある。50年を節目にして『公害を忘れましょう』ではなく、50年を次のステップにするべきだ」

出版記念会で執筆の経緯などについて話す伊藤三男さん(左から3人目)。一つ奥の席に座るのは今回の本に「四日市公害と文学」のテーマで寄稿した三重大教育学部の和田崇准教授(7月16日、筆者撮影)
出版記念会で執筆の経緯などについて話す伊藤三男さん(左から3人目)。一つ奥の席に座るのは今回の本に「四日市公害と文学」のテーマで寄稿した三重大教育学部の和田崇准教授(7月16日、筆者撮影)

 書籍は税込み1980円。発行元は名古屋市の老舗出版社、風媒社。正式発刊は24日の予定で、購入希望者は同社へ直接連絡(TEL 052-218-7808、メール info@fubaisha.com)を。

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 私も四日市時代に幾度となく取材させていただいた澤井さんは2015年に、原告の一人だった野田之一さんは19年に亡くなった。あらためてご冥福をお祈りしたい。

ジャーナリスト

1973年横浜市生まれ。早稲田大学大学院理工学研究科(建築学)修了。中日新聞記者を経て2008年からフリー。名古屋を拠点に地方の目線で社会問題をはじめ環境や防災、科学技術などの諸問題を追い掛ける。東日本大震災発生前後の4年間は災害救援NPOの非常勤スタッフを経験。2012年からは環境専門紙の編集長を10年間務めた。2018年に名古屋エリアのライターやカメラマン、編集者らと一般社団法人「なごやメディア研究会(nameken)」を立ち上げて代表理事に就任。

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