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大河『青天を衝け』がとてつもなく名作になったわけ 「過去の再現ドラマ」にしなかったその画期的手法

堀井憲一郎コラムニスト
(写真:つのだよしお/アフロ)

かつてない大河ドラマ『青天を衝け』

『青天を衝け』を見ていて、しみじみとするドラマであった。

大河ドラマは歴史ドラマということもあって、あまり、しみじみとすることはない。

でも『青天を衝け』はちがった。

おそらく歴史事実を追うだけのドラマではなかったからである。

少し変わった大河ドラマであった。

登場人物の「こころざし」が丁寧に描いたため、すばらしい作品になったのではないだろうか。

見ていて元気にさせるドラマ

『青天を衝け』は幕末から明治の動乱の時代を描き、なおかつ躍動的であった。

登場人物がめざましく働くのはいつものことであるが、彼らを見ていると何だか元気になったのだ。

どこか励まされた。

ちょっと不思議な大河ドラマであった。

「倒される側の未来」を見せてくれた

渋沢栄一は幕府側の人間だったこともあり、政権の中枢に関わった人物ではない。

幕末動乱の敗者の側に与していた。

でも彼は、どんな状況にいようと、前に進もうと元気である。

このドラマの素敵なところは「倒される幕府側の人間」をじつに痛快に描いた部分にあった。

倒す側にも正義があるだろうが、倒される側にも誠実さと未来がある。

その部分を、悲惨さや悲哀をあまり込めずに、爽やかに描いたところが画期的であった。

一橋慶喜の痛快さ

幕末段階では、一橋慶喜(草彅剛)が痛快であった。

江戸ッ子は、どうやら昔から「徳川様」が好きで、幕末動乱のおりも西のほうから来た田舎者に江戸の街を荒らされるのが悔しくて、心情的には徳川家にお味方していた、というのが、江戸落語を通して感じられる当時の世情である。

もちろんそうじゃない江戸ッ子もいただろうが、調子のいい江戸ッ子だったら徳川贔屓のはずである、というのが東京に住む者として土地から聞こえてくる声である。

だから薩摩をやりこめる一橋慶喜は痛快であった。

その家来の平岡円四郎(堤真一)も、まさに気っ風のいい江戸ッ子侍で、出てくるだけでわくわくした。

土方歳三の凄まじいまでの魅力

土方歳三(町田啓太)もよかった。

彼はだいたい冷徹な男に描かれることの多いのだが、渋沢栄一は幕末期に実際に彼と行動を共にしており、渋沢を通して見ると、じつに生き生きとした青年の姿が浮かび上がってくるのだ。見事であった。

土方歳三や渋沢栄一は江戸の人ではないが武州の人間、つまり「江戸のある武蔵国の育ち」であり、おそらく「準・江戸ッ子の心意気」を持ってたんではないだろうか。彼らは、江戸ッ子らしく、いつも悔いのないように進んでいたのだ。

見ていて、爽やかな心地にさせられた。

明治22年(1890年)家康入府三百年を祝った会合も描かれていた。

この「東京開市三百年祭」が大河ドラマに描かれるのは珍しいし、見ていて嬉しい。

江戸ッ子のドラマだからだろう。

この祭りに集まったのは徳川家ゆかりの人たちであり、それを喜んでいたのは江戸ッ子である。

薩長の連中にはちょっとわかってもらえない心意気がここにあったのだ。

草彅剛演じる慶喜の圧倒的な説得力

慶喜を演じて草彅剛の静かな存在感がすごかった。

とくに明治以降、隠遁した徳川慶喜の姿がすばらしかった。

隠遁した慶喜公は、こういう気配の人だったのかと、新たな知見を感得しつつ、ずっと眺めていた。

草彅剛のうまさであろう。

山本五十六を演じた香取慎吾もすごかったが、慶喜公を演じて草彅剛も静かに迫力があった。

徳川慶喜の異様に静かな後半生を描く

徳川慶喜という人は、前半生の三十年をまさに動乱のさなかで過ごし、のち四十年余を静かに静かに隠遁して暮らした人である。

その前半生の姿はたびたび大河ドラマにも登場しているが、後半生をここまで丁寧に描いたドラマはちょっと見たことがない。

そこが妙に心に迫ってきた。

その人物を演じて、草彅剛はほんとうにそこに慶喜公がいるようだった。

どこまでも自然だった。

静かな生活をしているという姿だからこそ、強く心に残った。

懸命に努力して静謐な生活を続けているという明治時代の徳川慶喜について、初めてその心情を想像することができ、何だか歴史の余波に寄り添ったような気分になれた。

それは草彅剛が演じたからこそだ、と感じている。

経済を中心には描かなかった見識

渋沢栄一は、政治的な活動もしているが、基本は経済人である。

人々の暮らしを豊かにしようとし、懸命に生きる人たちが報われる社会をつくろうとしていた。だいたいそれは「資本主義を根づかせようとした」というふうに説明される。

わかったような、でもよくわからないその実際を、『青天を衝け』では巧みに見せてくれた。

それも、経済の人を主人公に据えて、でも経済ドラマにしなかったのがよかったのだ

明治時代の経済話は、あまり人は興味を持たない。

「これからどうする」の物語

『青天を衝け』は、渋沢栄一の心情ときちんと描き、その先の行動を見せてくれた。

常に「これからどうするか」を見せてくれた。

どこへ行くのか、何をしたいのか、「その先」をいつも意識して動いている渋沢栄一を私たちはずっと見続けていた。

渋沢栄一は、常に、人のために動いていた。

そう心に定め、行く方向を定め、そちらへ進んでいく。その姿が描かれていた。

「こころざし」を描いたドラマだったのである。

「過去にやったこと」を描いたドラマとの違い

つまり「過去になにをやったか」というドラマではなかった。

『青天を衝け』は「これから何をやりたいのか」を描いていたのだ。

そこが素晴らしい。

これは、渋沢の細かい事績が周知せられてないことも大きかったとおもう。

徳川家康が何をやったのか、源頼朝が何をやったのか、それはみんなだいたい知っている。

でも渋沢栄一については、なんか、いろいろやったらしいよな、というぐらいにしか知られていない。

そこがよかったのではないか。

「過去に起こったことを再現する大河ドラマ」ではなく、その時代に前を向いて生きていた人物の「これから何を起こそうとしているのか」を見られるドラマとなったのである。

現在性のとても高いドラマであった。

だから「明治以降を描いた大河ドラマ」なのに、見てる者をわくわくさせることに成功していた。

吉沢亮の魅力による成功

われわれはドラマを見て、彼ら幕末人や明治人を、同時代人のように感じ、彼らの「前を向いた元気さ」をストレートに受け取っていたのである。

だから見ていて元気が出たのだ。

ドラマの爽快さと、疾走感は、役者・吉沢亮の魅力によるところが大きい。

吉沢亮だからこそ、最後まで、爽やかに駆け抜けたとおもう。

とても心に残る大河ドラマであった。

コラムニスト

1958年生まれ。京都市出身。1984年早稲田大学卒業後より文筆業に入る。落語、ディズニーランド、テレビ番組などのポップカルチャーから社会現象の分析を行う。著書に、1970年代の世相と現代のつながりを解く『1971年の悪霊』(2019年)、日本のクリスマスの詳細な歴史『愛と狂瀾のメリークリスマス』(2017年)、落語や江戸風俗について『落語の国からのぞいてみれば』(2009年)、『落語論』(2009年)、いろんな疑問を徹底的に調べた『ホリイのずんずん調査 誰も調べなかった100の謎』(2013年)、ディズニーランドカルチャーに関して『恋するディズニー、別れるディズニー』(2017年)など。

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