P・P・アーノルド/1960年代スウィンギング・ロンドンの追憶とストーンズ、S・フェイセズ【後編】
2024年10月にライヴ・アルバム『Live In Liverpool』をリリースする“ロンドンズ・ファースト・レディ・オブ・ソウル”、P・P・アーノルドへの全2回のインタビュー。前編記事では現在進行形のアーティストとしての彼女に焦点を当てたが、今回は時計の針を戻し、1960年代の思い出を中心に語ってもらおう。
<1960年代後半のロックンロール革命はすごく刺激的だった>
●1966年にアイク&ティナ・ターナー・レヴューがザ・ローリング・ストーンズとのツアーでイギリスを訪れ、そのまま脱退した逸話は“伝説”となっていますが、具体的にどのような展開だったのか教えて下さい。
アイク&ティナがイギリスをツアーすることになって、私はバック・シンガー&ダンサー、アイケッツの1人だった。ストーンズはみんなフレンドリーですぐに仲良くなって、特にミック・ジャガーとは親しくなったのよ。私を“イミディエイト・レコーズ”のアンドリュー・オールダムに紹介したのはスチュ(イアン・スチュワート)とグリン・ジョンズだった。レヴューから脱退するなんて言ったら独裁者のアイクが激怒するのは間違いないから、ツアー最終公演の後に私の荷物だけこっそり運び出して、イギリスに残ったのよ。
●ストーンズとアイク&ティナの英国ツアーでは楽屋でミック・ジャガーにダンスの動きを教えたそうですね。ミックは80歳になる今でもステージでダンスを披露していますが、今でもあなたが教えたムーヴをやっていますか?
ロイヤル・アルバート・ホールの楽屋でアイケッツとティナ、ミックが集まって、話したり踊ったりしたのを覚えているわ。ミックはいつもジョークを飛ばして、みんなを笑わせていた。ミックはティナを狙っていたっぽいけど、いろんな出来事が続いて、私と付き合うようになったのよ。当時、アメリカだったら白人男性と黒人女性が付き合うなんて論外だったし、イギリスでもある程度タブーだった。でもミックはそんな世間の常識に囚われることがなかった。常に自分らしく生きていたし、私にも自由でいられるように応援してくれて、アイケッツを抜けるときもサポートしてくれた。...あなたの質問に答えると、今のミックは独自のスタイルをしているし、私のダンスからの影響はないと思う(笑)。でも彼も私も、ティナから影響を受けているわ。彼女には強烈な個性があって、誰もが夢中になった。私が何も言わずにレヴューから離脱したことに怒っているかと思って、しばらく連絡を取れずにいたけど、謝ったら笑って許してくれた。彼女は大きなハートを持っていたし、亡くなる前にちゃんと和解することが出来て良かったわ。
●あなたは“クイーン・オブ・ロンドン・ソウル”と呼ばれ、モッズからも絶大な支持を得ましたが、同時にロンドンのサイケデリック/プログレッシヴ・ロックの人脈とも関わってきました。そもそもキース・エマースンのいたザ・ナイスは1967年、あなたのバック・バンドとして結成されたという有名なエピソードがあるし、1960年代からピンク・フロイドと同じショーに出演したり、それ以降もピーター・ゲイブリエルの『So』(1986)やロジャー・ウォーターズの『死滅遊戯 Amused To Death』(1992)に参加しています。
そう、1966年にロンドンに来てしばらくはソウル・バンドとやっていたけど、“イミディエイト・レコーズ”のアンドリュー・オールダムがもっとロックっぽいバンドを起用するべきだと言ってきたのよ。それで紹介されたのがキース・エマースンとリー・ジャクソンだった。彼らは私のバック・バンドを引き受ける条件として、自分たちがオープニング・バンドも務めることを主張してきた。そうすれば自分たちの音楽もプレイ出来て、ギャラも増えるからと言っていた。当初バンドの名前は“ザ・ナズ The Nazz”となる筈だった。イエス・キリストがナザレ出身だからね。でも私の発音を聞き間違えたのと、イギリス人がいつも「それはナイスだね」と言っているのが面白くて、ザ・ナイスという名前にしたのよ。
●1960年代ロンドンのサイケデリック・シーン、“UFOクラブ”やラドブルック・グローヴで起こっていることは認識していましたか?
まったく知らなかった。アイク&ティナ・ターナー・レヴューでやっていた頃の私は十代で2人の子供がいてツアーの毎日で、音楽業界のことなんて何も知らなかったのよ。ザ・ローリング・ストーンズが誰かも判らなかった。オーティス・レディングが「サティスファクション」を歌うのは聴いたことがあったから、「オーティスの曲を歌っているイギリスの若い子たち」と思っていたわ。当時アメリカでは人種間が隔離されていたし、初めて出来た白人の友達がミック・ジャガーだった。
●1970年代前半にピンク・フロイドやエマースン・レイク&パーマーなどのプログレッシヴ・ロック・バンドが巨大化していったことは知っていましたか?
その時期は音楽雑誌や新聞も読んでいたし、音楽シーンで何が起こっているかを追っていたわ。1960年代の後半、ロックンロールの革命はすごく刺激的だった。そんなロンドンの渦中にいたアメリカ黒人が、私とジミ・ヘンドリックスだった。彼とはロンドンのクラブ“バッグ・オー・ネイルズ”で知り合って、すぐに親しくなったのよ。でもそれから間もなくジミは亡くなって、“イミディエイト・レコーズ”も閉鎖することになって、私はサポートを失うことになった。バリー・ギブが手を差し伸べてくれて、アルバムをレコーディングしたけど、出してもらえなかったのよ(注:2017年に『The Turning Tide』としてリリースされた)。
●イギリスでの活動でどんなことを学びましたか?
すべてよ!ビジネスのこと、生活のこと、音楽のこと…それまで学校もまともに卒業せずにアイケッツに入って、ツアーで毎晩ステージに上がっていたから、勉強する機会なんてなかった。ツアーが90日で、そのうち85日はショーがあったのよ。ブルースはアメリカの音楽だったけど、ずっと年上の人が聴く音楽だと思っていたわ。B.B.キングやボビー“ブルー”ブランドは聴いていても、私はモータウンのソウルやR&Bの方がポップで好きだった。でもイギリスの音楽リスナーは深くブルースを聴き込んでいたわ。アレクシス・コーナーやジョン・メイオールはブルースのマニアだった。さまざまなことを教えてもらったわね。2人の子供をイギリスに連れてきて育てることになったし、とにかく毎日が勉強だった。そんな責任があったから決してドラッグにハマったりしなかったわ。
<ロック・スターだから付き合ったのではない。付き合った相手がたまたまロック・スターだっただけ>
●最後にミックと会ったのはいつのことですか?
スチュの葬式以来一度も会っていないわ(1985年)。私はその少し前にイギリスに戻ってきて、ファジー・サミュエルと暮らしながら、『スターライト・エクスプレス』に出演した。それぞれが別の道を進んでいたし、親しく話すことはあっても、昔のような関係に戻ることはなかったわ。それはロッド・スチュワートやキース・エマースンもそうだった。もちろん顔を合わせれば昔話が盛り上がるし、楽しいんでしょうけどね。ミックとの関係が永遠に続くものではないことは判っていたわ。その後マリアンヌ(フェイスフル)とのことがあったし、彼はビアンカと結婚したしね。
●あなたの自伝を読むとミック・ジャガー、スティーヴ・マリオット、ジミ・ヘンドリックス、ロッド・スチュワートなど、超豪華なボーイフレンド陣ですね。
そうね(笑)。でも彼らがロック・スターだから付き合ったわけではなくて、付き合った相手がたまたまロック・スターというだけだったのよ。彼らはまず何よりも友達で、その関係が発展していっただけだった。子供たちがイギリスに来てからは母親でいることで忙しくて、ボーイフレンドと夜遊びするなんてこともなくなった。もう何年も、そういう浮いた話はないわね。
●彼ら全員とレコーディングして欲しかったです!
スモール・フェイセズとは「ティン・ソルジャー」を共演しているし、ロッドとデュエットした「カム・ホーム・ベイビー」はミックがプロデュースしている。ミックには他にも黒人のガールフレンドがいたけど、レコードをプロデュースしてもらったのは私だけだから、私の勝ちね(笑)。ジミと一緒にレコードを作れたら良かったと思う。でも1960年代の終わりはお互いに忙しかったし、とにかく時間が経つのが速かった。自伝にも書いたけど、彼がグルーピー達と乱痴気騒ぎをしているのに出くわして、しばらく連絡を絶ったのよ。そのまま彼はアメリカに戻って、「ワイト島フェスティバルで会えるのが楽しみだ」とミッチ・ミッチェルに伝言を託してきたけど、会わなかった。そうして二度と会わないまま、彼は亡くなってしまったのよ。ミックもジミも、まだ20歳にもなっていない私を守って、正しい方向に導いてくれた。そのことは本当に感謝しているわ。残念なのは彼らのどちらとも一緒に写真を撮っていないことね。こないだ写真家のゲレッド・マンコヴィッツ(注:本名パトリシア・アン・コールの彼女に“P・P・アーノルド”というステージ・ネームを付けたのは彼だった)に私の写真を送ってもらったけど、その中にもなかったわ。アンドリュー・オールダムとの素敵な写真は何枚かあったんだけどね。
●あなたは自伝でロッド・スチュワートと初めて会ったのは1966年、彼がショットガン・エクスプレスでやっていた頃だと書いていますが、バンドのギタリストのピーター・グリーンとは交流がありましたか?彼が後に結成したフリートウッド・マックは“イミディエイト”から名曲といわれる「マン・オブ・ザ・ワールド」を発表しています。
ピーターとは友人だったけど、すごく親しかったわけではなくて、顔を合わすと「元気?」と挨拶する程度だった。ジョン・メイオールと話すことの方が多かったわね。ピーターは決して社交的なタイプの人ではなかったし、ドラッグもやっていたから、あまり会話する機会もなかった。私が仲が良かったのはやはりザ・ローリング・ストーンズやスモール・フェイセズだった。ピーターは素晴らしいギタリストだったし、LSDのせいでフリートウッド・マックから消えていったのは残念だったわ。
●同じく自伝ではニック・ドレイクの『ブライター・レイター』(1971)にバック・ヴォーカルで参加したときの彼の印象を「静かで内向的」と書いていますが、どんな会話を交わしましたか?
ニックは私とドリス・トロイに求めているヴォーカルを伝えてきて、あとは言葉少なだった。そっけない感じはなく、温かみを感じたわ。でもその後、私はしばらくアメリカに戻ることになったし、彼は亡くなってしまったから、もう一緒にやる機会はなかった。とても残念だわ。
●あなたは映画『セッションマン:ニッキー・ホプキンス』でニッキー・ホプキンスについてコメントしていましたが、彼はどんな人物でしたか?
ニッキーは私の“イミディエイト”時代に「ザ・ファースト・カット・イズ・ザ・ディーペスト」やミック・ジャガーがプロデュースした「ゾウ・イット・ハーツ・ミー・バッドリー」を含め、何度もセッションで参加してくれた。ピアノの名手で、愛すべき人だったわ。シャイな人で、私もそうだったから気が合った。
<日本公演が実現したら本当に“ビューティフル・シング”ね>
●「ザ・ファースト・カット・イズ・ザ・ディーペスト」について聴かねば、P・P・アーノルドへのインタビューが完成したと言えないでしょう。キャット・スティーヴンズが書いたこの曲を初めて聴いたとき、どのように感じましたか?
初めて聴いたとき、歌詞に注目したのを覚えている。どんな感情が歌われているかを知るのが大事だからね。聴いた瞬間、これは私のために書かれた歌だと思った。子供の頃から私が経てきたことがすべて描かれていたのよ。自分が傷つきやすい人間なのは、幼少期からの人間関係によるものだった。当時の社会では女性がそういうことを公に話すのは許されなかった。でも、そうしても良いんだ!と目の前が開けたのよ。人生において、そういう瞬間が何度かある。YouTubeだったか、アイク・ターナーのドキュメンタリーを見たときもそうだった。彼が子供の頃、年上の女性に性的虐待に遭って、虐待のスパイラルに陥っていたと娘さんが主張するのに、当事者としてすごく納得がいったわ。アイクはジェイムズ・ブラウン、オーティス・レディング、ジョー・テックスと肩を並べるぐらいの才能を持ったミュージシャンだった。それに加えてビジネスマンとして、ブッキング・エージェントとしても優れていた。そんな彼とティナが組んだら、もう誰も敵わなかった。ティナの歌にもあったけど、「シンプリー・ザ・ベスト」だったのよ。彼女が“ザ・ベスト”だったのは、ノンストップで働いてきたからだった。1957年から2010年まで、止まることがなかったのよ。私はそのうち2年間一緒だっただけだけど、そばで彼女を見ていたことで、ハード・ワーキングであることの尊さを知ったわ。最近、ある若手キーボード奏者とリハーサルをしていたら「午後4時半だ。帰らなきゃ」と言い出した。リハーサルを続けているのは演奏が100%でないからで、それを途中で切り上げるというのは、共演するミュージシャンと音楽そのものに対して敬意がないことだわ。アイクとのショーで100%を出さなかったら、罰金を取られるか、クビになるかだった。今の世の中、そういうのは通らないと言うかも知れないけど、それがプロフェッショナルというものよ。アイクの女性虐待は酷いものだったけど、女性は多かれ少なかれ搾取や虐待を受けていた時代だった。私の母や叔母もそうだった。今では女性が強くなって、そういうのが減ったのは素晴らしいけど、“自由”と称して楽をすることは認められない。プロフェッショナルは強くあるべきなのよ。...女性アーティストに対する性加害はまだ存在するけど、泣き寝入りするのではなく、告発する人が増えたのは大きな前進ね。去年の大晦日、テレビの『ジュールズ・ホランド・フーテナニー』で一緒だったレイ(Raye)はプロデューサーから性被害を受けてきたことを明らかにした。とても勇気のある行為だと思うわ。
●女性が脅かされることなく、安全に暮らせる世界であって欲しいですね。
音楽についても、女性のバンドが出てきたのは1980年代に入ってからで、1960年代にはヴォーカル・グループはいても、バンドは見かけなかった。あなたは知っている?
●...シャッグス、ランナウェイズとか...ザ・ジャム時代のポール・ウェラーも推していたThe Go-Go’sもデビューは1970年代だと思います。
The Go-Go’sは知っているけど、1970年代まで女性のバンドがマイノリティだったことは間違いないでしょう。今では良いバンドもいるし、ダメなバンドもいるけど、たくさんの女性バンドが競争することが出来る。それだけでも良いことよ。
●これからのご活躍も楽しみにしています!
2024年内はイギリスをツアーをして、2025年もツアーをやるつもりよ。アルバムやボックス・セットも出るし、忙しい1年になりそうね。“チャーリー・レコーズ”も私に敬意を持ってくれて、プライオリティ・アーティストとして扱ってくれる。ミック・ジャガーがプロデュースしたけど未完成のトラックもあって、それも完成させたいと考えている。あまり実現していないプロジェクトについて話すと、実現しなかったときにファンをガッカリさせてしまうけど、あまりにエキサイトして、つい口を滑らせてしまうのよ。2025年にはぜひ日本でもツアーをやりたい。スティーヴ・クラドックを含むバンドでも良いし、日本のソウル・ミュージシャン達と一緒にやってみたいわ。
●日本には何回ぐらい来たことがありますか?
ロジャー・ウォーターズとの1回、それだけよ(2002年)。ロジャーは私を“ただのバック・シンガー”扱いせず、敬意を持って接してくれた。待遇も良かったし、私のソロ・アーティストとしてのキャリアが再注目されたのは、彼の力が大きいわ。
●ロジャー・ウォーターズといえば頑固で偏屈なことで知られていますが、あなたとの関係は良好でしたか?
ロジャーと私はお互いに対する尊敬で繋がれているのよ。彼はプロフェッショナルでクリエイティヴなアーティストで、だからこそ10年も一緒にやっていけた。彼はアーティストとしての誇りがあるし、それを曲げることがない。それが“ロジャー・ウォーターズ”なのであって、共演出来たことは名誉に感じているわ。彼には自分の思想と哲学と情熱があるし、そのせいで論議を起こすこともあるけど、一流のミュージシャンシップを持った人だし、私にとってはそれが重要なことだわ。
●そのときはスノーウィ・ホワイトもツアーに同行していましたね。
そう、スノーウィは本当にスウィートな人で、素晴らしいギタリストだったわ。いつか彼に私のショーでギターを弾いてもらうのが夢ね。
●あなたの日本でのショーが実現するのを祈っています!
それが実現したら本当に“ビューティフル・シング”ね。日本のファンの前で歌う日を待っているわ。日本語も勉強しなきゃね。Domo arigato!
【最新アルバム】
P.P. Arnold
『Live In Liverpool』
earMUSIC / 2024年10月18日発売(海外)