2023年10月にエッセイ『晴れ、そしてミサイル』(ディスカヴァー・トゥエンティワン)を出版した渡部陽一さんに、一人前の戦場カメラマンになるまでの修業時代の話を聞いてみよう。
ジャングルで教わったことを赤ちゃんが言葉を覚えるようにして吸収
戦場カメラマンになるべく、横浜の港でのバナナの積み込みの日雇い仕事で貯めたお金で、アフリカのザイール(現在のコンゴ民主共和国)に渡った渡部陽一さん。
まだ大学生で、何のノウハウも持たない彼を助けたのは、アメリカ、フランス、イギリス、スペインなど、世界のあらゆる国からやってきたジャーナリストや戦場カメラマンたちだった。
こうして“自称”戦場カメラマンとして彼らと行動をともにすることで、写真の撮り方はもちろん、国を越えて移動するときのビザのとり方、取材許可証の申請方法、パスポートやキャッシュの保管の仕方など、海外の危険な場所で取材活動をするためのノウハウを学んでいった。
つらく、貧しい生活を強いられた修行時代
こうして戦場カメラマンになった渡部さんだが、通信社や新聞社に所属しない、フリーランスだったため、戦場で撮った写真をメディアが買ってくれなければ収入に結びつかないという、厳しい世界である。
実際、駆け出しのころの渡部さんは、つねに貧しい生活を強いられていた。
2003年のイラク戦争で、無名だった僕の名が一気に注目されたのです
そんな渡部さんが日本全国から注目の視線を浴びる出来事が起こった。
世界報道写真展に作品を出品するため、開催地のイラクのバクダットを訪ねていたとき、イラク戦争が起こったのだ。
これをきっかけに、出版社や新聞社だけでなく、彼の番号を知らないはずのテレビ局やラジオ局からもレポート依頼の電話が殺到した。
その結果、戦場に初めて動画を撮影できるビデオカメラを持ち込み、中継レポートに挑戦することになるのだが、初レポートは成功と呼ぶには、ほど遠い状態だったという。
こうして渡部さんは、30歳を過ぎて少しのころ、バナナの仕事をしないでも戦場に行けるようになっていたという。
※この記事は、かっこよく年を重ねたい人におくるWEBマガジン「キネヅカ」に公開された記事を加筆・修正したものです。是非、そちらの全長版も読んでください。
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