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戦場カメラマン渡部陽一に聞く!② 修業時代、僕がジャングルで学んだ貴重な教え

ボブ内藤編集者、ライター、インタビュアー
撮影/八木虎造

2023年10月にエッセイ『晴れ、そしてミサイル』(ディスカヴァー・トゥエンティワン)を出版した渡部陽一さんに、一人前の戦場カメラマンになるまでの修業時代の話を聞いてみよう。

ジャングルで教わったことを赤ちゃんが言葉を覚えるようにして吸収

戦場カメラマンになるべく、横浜の港でのバナナの積み込みの日雇い仕事で貯めたお金で、アフリカのザイール(現在のコンゴ民主共和国)に渡った渡部陽一さん。

まだ大学生で、何のノウハウも持たない彼を助けたのは、アメリカ、フランス、イギリス、スペインなど、世界のあらゆる国からやってきたジャーナリストや戦場カメラマンたちだった。

「アフリカのジャングルは、ひとりで入れば生きて帰れないほど、過酷な環境です。太陽の光が足下に届かないほどに木々が覆いかぶさっていて、少し歩いただけですぐに方角がわからなくなり、食糧も水も尽きれば、そこで死ぬしかありません。

だから、そのなかに入って取材をするため、彼らは集団で行動していたのです。

僕が持っているカメラを見て、『君、カメラマンなの?』と聞いてくる人すべてに、『はい、僕はカメラマンです』と名乗り、一緒に行動してくれるようにお願いしました」

こうして“自称”戦場カメラマンとして彼らと行動をともにすることで、写真の撮り方はもちろん、国を越えて移動するときのビザのとり方、取材許可証の申請方法、パスポートやキャッシュの保管の仕方など、海外の危険な場所で取材活動をするためのノウハウを学んでいった。

「結局、僕は1993年から1996年にかけて6回、アフリカのザイールとルワンダを訪れているのですが、この3年間は貴重な学びの場でした。

僕は、赤ちゃんが言葉を覚えるようにして、ジャングルで教わったことを夢中で吸収しました。僕の原点とも言える、とても濃密な3年間です」

撮影/八木虎造
撮影/八木虎造

つらく、貧しい生活を強いられた修行時代

こうして戦場カメラマンになった渡部さんだが、通信社や新聞社に所属しない、フリーランスだったため、戦場で撮った写真をメディアが買ってくれなければ収入に結びつかないという、厳しい世界である。

実際、駆け出しのころの渡部さんは、つねに貧しい生活を強いられていた。

「当時、僕は横浜の港で、巨大タンカーで運ばれてくるバナナをコンテナに手積みして、倉庫に運ぶ日雇い仕事をしていました。
早朝から夜中まで働いて、もらえる日当は約7000円。日々の食費や家賃などの生活費をできる限り切り詰めて、貯めたお金で格安航空券を購入して次の取材活動にあてていました。

バナナと戦場、そしてまたバナナと戦場、その往復で、戦場カメラマンというより、単なるフリーターと呼ばれてもおかしくないような立場でした。『一生、この生活が続くのか』と絶望的な気持ちになることもありました」

撮影/八木虎造
撮影/八木虎造

2003年のイラク戦争で、無名だった僕の名が一気に注目されたのです

そんな渡部さんが日本全国から注目の視線を浴びる出来事が起こった。

世界報道写真展に作品を出品するため、開催地のイラクのバクダットを訪ねていたとき、イラク戦争が起こったのだ。

「僕の写真を初めて掲載してくれたのは毎日新聞社のサンデー毎日なんですが、イラクに出発する前、親しい編集者にあいさつをしていたんです。

ですから、戦争が始まった直後、僕のSIMカード入りの携帯電話に『渡部くん、今どこにいるの?』という編集者からの電話がかかってきました。
『バクダットにいます』と答えると、興奮した様子でこんな言葉が返ってきました。

『ぶち抜きで14ページ、オール渡部陽一の写真でイラク戦争特集を組む。どんどん写真を撮って送ってくれ』と」。

これをきっかけに、出版社や新聞社だけでなく、彼の番号を知らないはずのテレビ局やラジオ局からもレポート依頼の電話が殺到した。

その結果、戦場に初めて動画を撮影できるビデオカメラを持ち込み、中継レポートに挑戦することになるのだが、初レポートは成功と呼ぶには、ほど遠い状態だったという。

「放送局からの指示は、イヤホンを通じて送られてくるんですが、『はい、キューです』という指示が話し出しの指示だということがわからず、最初の数十秒は無言でカメラを見つめるだけでした。

その『キューです』の声が、『キューだ、キューだ』とだんだん荒げてきたので、『こちらバクダット、渡部陽一です』と話し始めました。話している間にも、『なんだ、その間延びした話し方は。もっと早くしゃべれ!』というダメ出しが飛んできました。

ただ、レポートを終えてまわりを見回すと、CNNやロイター、アルジャジーラ、AP通信など、ニュース番組で大活躍している有名レポーターがたくさんいて、僕がそのなかに混じっていることに不思議な感動がありました」

こうして渡部さんは、30歳を過ぎて少しのころ、バナナの仕事をしないでも戦場に行けるようになっていたという。

撮影/八木虎造
撮影/八木虎造

※この記事は、かっこよく年を重ねたい人におくるWEBマガジン「キネヅカ」に公開された記事を加筆・修正したものです。是非、そちらの全長版も読んでください。

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編集者、ライター、インタビュアー

編集プロダクション方南ぐみを経て2009年にフリーに。1990年より30年間で1500を超える企業を取材。財界人、有名人、芸能人にも連載を通じて2000人強にインタビューしている。著書に『ビジネス界に脈々と伝わる先人の知恵 業界のセオリー』(徳間書店)、『人を集める技術!』(毎日新聞社)、『はじめての輪行』(洋泉社)などがある。また、出版社の依頼で賞金500万円の小説新人賞の選考事務局を起ちあげ、10年間運営した経験のもと、齋藤とみたか名義で『懸賞小説神髄』(洋泉社)を執筆。それをきっかけに、池袋コミュニティカレッジ「小説のコツ」の講師を2013~2023年の10年間つとめた。

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