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『光る君へ』が晒す平安貴族の「肉体」 光の下での道長の姿態が示すもの

堀井憲一郎コラムニスト
(写真:アフロ)

貴族社会を舞台にした初めての大河

『光る君へ』は貴族社会を舞台にしている大河ドラマである。

きわめて魅力的なドラマだ。

貴族社会ドラマはどうなるかと心配していたが、とんでもなく面白い。

大河ドラマで、べつだん、かならず武士の戦いが見たかったわけではない、ということをつくづく感じている。

平将門から30数年後の世界

大河ドラマはだいたい武家社会が舞台であった。

戦国時代と徳川時代が中心で、明治以降だけが舞台になった作品もいくつかあったが(「山河燃ゆ」「春の波濤」「いのち」「いだてん」)だいたいは「刀を振りまわす」物語である。

『光る君へ』より舞台が古い物語としては『風と雲と虹』がある。

ただあれも武士の物語として描かれていた。

平将門や俵藤太は戦さのときにとんでもなく立派な兜をかぶって出陣しており、いま見るとちょっと驚く。あまりに戦国武将っぽい装束である。

『風と雲と虹と』の将門が死んで三十数年後から『光る君へ』の物語は始まっている。

主人公は貴族たちである。

貴族たちの連続ドラマはあまり例がない。

新しい試みながら、とてもわくわくするドラマに仕上がっている。

明るい光を意識したドラマ

目を引くのは、その画面の明るさである。

ずっと明るい。

「光り」を意識した画像が作られている。

『光る君へ』が貴族社会を舞台にしながら魅力に満ちているひとつの要因は、この「明るさ」にあるように私はおもう。

貴族はいつも屋内にいるというイメージ

もともと、貴族にはどうしても屋内の存在というイメージを持ってしまう。

武士は馬で野を駆けるという印象があるのに対して、貴族はいつも屋内で歌を詠んでいそうである。

ただそれは、『光る君へ』を見ていると、勝手なおもいこみであることがわかる。

武士は外、貴族は内、というのは、のちの時代のイメージでしかなかった。

貴族が暴力機関を管理している

「武士の社会」が出現するより前、国内の治安や警察権などは為政者が握っている。つまり、貴族が国の暴力機関を管理していたわけだ。

坂上田村麻呂や文屋綿麻呂は将軍という武人でありながら、大納言や中納言の公卿でもあった。

大伴家持は歌人としても有名であるが、また、征東将軍であり、武力を持って敵を制するのが仕事であった。

貴族はまた、軍隊のトップでもあり、警察を指導する立場でもあった。考えてみればわかることだが、あまりリアルに考えていなかった。

弓を射る貴族が美しい

だからあらためて『光る君へ』で貴族の「身体性」を見せられると、驚いてしまう。

ドラマでは魅力的に見せてくれる。

藤原道長(柄本佑)も若いころ、警備の仕事をしていた。

弓を担ぎ、ときに人を(盗賊を)射る。家で弓の稽古もしていた。

道長の弓はなかなかの腕前である。

弓を射るときは片肌を脱ぐことも多い。

若い貴族たちの肉体を見せるシーンもあった。

平安貴族たちの「ポロ」の試合

ポロもやっていた。

馬に乗ってスティックでボールを打ち、ゴールに入れるスポーツである。

ドラマの中での(つまり本朝での呼び名は)「打毬(だきゅう)」。

『光る君へ』第7話で、道長は、藤原公任(町田啓太)、藤原斉信(金田哲)、藤原行成(渡辺大知)らとチームを組んで出場する。

当日になって行成は体調が悪くなり、急遽別人を入れて戦うのだが、この「貴族中の貴族」とも言うべきメンバーが、その身体性を存分に見せつけた打毬シーンは『光る君へ』のひとつの見せ処であった。

貴族の肉体美と雨夜の品定め

源倫子を始めとして若く高貴な女性たちも見物に出かけていて、なかなか華やいだ場であった。

ポロの試合は雨が降って中止となり、道長以下の公達の息子たちは部屋に戻って、身体を拭う。

上半身肌脱ぎとなって、ここでも「貴族の肉体美」を存分に見せていた。

このあとの「雨夜の品定め」オマージュとおもわれる部分は、そもそもの設定を下品なものと断じているようで、あまり私はいただけなかったが、それも含めて「貴族の身体性」を強く主張した部分ではあった。

この「貴族の身体性」を感じさせるのが、前半部分の大きなテーマであったと、私はおもっている。

ドラマが光にあふれている

そして、光にあふれていて、明るい。

ドラマに登場する建物は、光を広くとりいれている。

ヒロインまひろの家などは、いつもずっと開け放たれている。

夏はいいけれど、冬はあれではたぶん凍えてしまうとおもうのだが、そういう細かいところは気にされていない。見ているほうもさほど気にしていない。

だから屋内のシーンが明るい。

書見をしているところや、家内の仕事をしているところも、限りなく明るい。

光に満ちている。

そういえば、天皇と向かいあうところも、ずいぶん明るい場所である。

政務がすべて、明るいところで展開している。

それがこのドラマのひとつのテーマなのだろう。

野外シーンの魅力

野外でのシーンも目を引く。

京(みやこ)のなかでも、四条万里小路の辻に再三、出かけたり、ときにそこの怪しげな店へ出入りしたり、路上シーンも数多く見掛けた。

道長もよく馬で出かけている。

ヒロインも、自ら琵琶湖を渡ったり、遠く越前の国にまで行ったり、野外で日の光を浴びているシーンが多く、貴族やその周辺の人たちが日をきちんと浴びているシーンを見るのは、私には物珍しかった。

貴族たちもいつも光に囲まれている。

陰を見せない「寝殿造り」

陰影を礼賛されていた谷崎先生が見れば、おそらく納得しがたいところだろう。

ただ、どうも昭和のころに比べて、令和のいまは、すべてかなり明るく照らし出しているようにおもう。陰影がどんどん追い出されているようにもおもう。

そしてそれが1000年前にも反映されている。

21世紀だからこれほど陰を見せない「寝殿造り」が現出されるわけである。これはこれでひとつの見識のようにおもう。

いな描くと、貴族たちは光る世界に生きており、そこに光る君もおられる。

それが今年の大河ドラマである。

貴族世界にも力に満ちた身体性はあり、また明るい日の光の下で活動していた。

その可能性を示したところがこのドラマの素敵なところである。

コラムニスト

1958年生まれ。京都市出身。1984年早稲田大学卒業後より文筆業に入る。落語、ディズニーランド、テレビ番組などのポップカルチャーから社会現象の分析を行う。著書に、1970年代の世相と現代のつながりを解く『1971年の悪霊』(2019年)、日本のクリスマスの詳細な歴史『愛と狂瀾のメリークリスマス』(2017年)、落語や江戸風俗について『落語の国からのぞいてみれば』(2009年)、『落語論』(2009年)、いろんな疑問を徹底的に調べた『ホリイのずんずん調査 誰も調べなかった100の謎』(2013年)、ディズニーランドカルチャーに関して『恋するディズニー、別れるディズニー』(2017年)など。

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