そもそも五輪の外交的ボイコットとは? 効果や始まり…知っておきたい基礎知識5選
2022年北京五輪に政府関係者が出席しない「外交的ボイコット」には、どんな意味があるのか。以下では外交的ボイコットの背景や効果についてみていこう。
(1)これまで外交的ボイコットはあったか?
今回の外交的ボイコットは香港やウイグルでの人権問題が理由になっており、これまでにアメリカの他、イギリス、カナダ、オーストラリア、リトアニアなどが加わっている。また、ニュージーランドは「コロナ感染」を理由に政府代表の派遣を見合わせている他、本稿執筆段階で日本政府も検討中と一部で報じられている。
これに対して、中国政府は「来なくても誰も気にしない」と強気の姿勢を崩さないが、メンツを潰されて内心穏やかでないことは想像に難くない。もっとも、昨今の米中対立を考えれば、中国としても想定の範囲内だったかもしれない。
それはともかく、今回のボイコットは政府関係者に限ったもので、選手派遣を中止するものではない。実際、アメリカ政府は高官を送らない一方、「アメリカ選手団は万全の支援を受けられる」とも強調し、アスリートの不安払拭に追われている。
「平和の祭典」と呼ばれる五輪だが、これまでもしばしば政治対立の舞台になってきた。
しかし、1896年にアテネで近代五輪の第1回大会が開催されて以来、確認できる範囲で「政府関係者だけ送らない」という例はこれまでにない。そのため、外交的ボイコットは今までにない新しい手法といえる。
(2)これまでどんなボイコットがあったか?
外交的ボイコットが初めてとすると、これまでのボイコットにはどんなものがあったのか。その歴史は古く、20世紀初めにまでさかのぼる。
五輪初のボイコットは1920年アントワープ大会でのソビエト連邦によるものだった。1917年のロシア革命後、新たに発足した共産主義国家ソ連は帝政時代から続いていた五輪参加を中止したのだ。
ソ連は当初アマチュアスポーツそのものを「ブルジョワ的」とみなし、イデオロギー的な理由で五輪をボイコットした。しかし、その後「五輪がイデオロギー宣伝の機会になる」と判断が変更された結果、1952年ヘルシンキ大会でロシア人選手が約40年ぶりに五輪に登場したのである。
その後もボイコットはしばしば発生し、特に1956年メルボルン大会はさながら「ボイコット祭り」になった。
この大会ではエジプト、レバノン、イラクが同じ年に発生したスエズ危機を理由に、イスラエル選手の参加する五輪をボイコットした。その一方で、やはり1956年に発生したハンガリー動乱を理由に、ソ連を批判するスイス、スペイン、オランダも参加を取りやめた。
さらに、メルボルン大会には中国も参加しなかった。台湾が「中華民国(Republic of China)」として出場することが「一つの中国」の原則に反するという理由だった。このボイコットは五輪での台湾の呼称が「中国台北(Chinese Taipei)」に変更されるまで続き、1984年ロスアンゼルス大会で初めて中国と台湾の選手がそろって出場することになった。
これらのボイコットのうち最大のものはソ連によるアフガニスタン侵攻(1979)の翌1980年に開催されたモスクワ大会でのものだが、これについては後述する。
ボイコットだけでなく、1972年のミュンヘン五輪では11人のイスラエル選手が選手村でアラブ過激派に銃殺されるテロまで発生している。五輪はその注目度が高いだけに、「平和の祭典」の理念とは裏腹に政治対立の縮図にもなってきたのだ。
(3)政治利用は五輪のルールに違反しないのか?
テロは論外としても、五輪のルールはスポーツの政治利用を禁じている。国際オリンピック委員会(IOC)の定める憲章では「政治的中立」が掲げられている。
だとすると、政治的な理由で選手を参加させないボイコットが、この憲章に反することは明らかだ。
ただし、今回の外交的ボイコットはややグレーである。アメリカが五輪の機会に政治的アピールをしたことは間違いないとしても、通常のボイコットと異なり選手派遣を中止したわけではないし、大会運営を妨げているわけでもない。
1980年モスクワ大会の際、アメリカ政府は当時のIOC会長マイケル・モリス(キラニン男爵)に大会の延期や中止の直談判さえしたが、今回はそうしたことも伝えられていない。
いわばギリギリのラインを攻める選択であるため、トーマス・バッハ会長が「選手が大会に参加できることを安堵している」、「政府高官の出席は各国の政治的判断であり、IOCは関知しない」と述べ、外交的ボイコットを問題視しないことは不思議でない。
もっとも、仮に外交的ボイコットが憲章に抵触するとしても、現実的にIOCにできることはない。
2021年東京大会の直前、IOCは「会場などで政治的アピールを行なった選手には懲罰もあり得る」と発表した。これはアメリカの五輪委員会が選手の政治的アピールを認めているのと対照的で、黒人選手を中心にブラック・ライブズ・マター(BLM)支持が広がっていることなどを念頭においたものだったが、ともかく肝心の「懲罰」の内容は定められなかった。
IOCは古き良きアマチュアリズムの精神を引き継いでいる(実際には商業化が目立つとしても)ため、「自主性」を重視せざるを得ない。だから何かを強制することに慎重なわけだが、選手に対してさえそうなのだから、参加国に対してはなおさらだ。実際、憲章に違反した国に制裁を課すルールはなく、これまでのボイコットでもIOCは「遺憾」の意を表すことしかできていない。
(4)ボイコットに効果はあるか?
いわば「やったもの勝ち」のボイコットだが、そこまでして効果が期待できるのかというと、そうでもない。ボイコットの効果は、ひいき目にいってもかなり限定的で、「ゼロではない」という程度のものだ。
実際、人目は引けても、少なくとも一回限りのボイコットで本来の目的が達成されたことはほぼ皆無で、史上最大の五輪ボイコットになった1980年モスクワ大会は、その象徴である。
当時のアメリカ大統領ジミー・カーターは「人権外交の元祖」とも呼べるが、その年の末に大統領選挙を控えていた。選挙を見据え、ソ連による人権侵害を糾弾する急先鋒として反ソ世論を喚起したカーターは、アメリカ国民の55%の賛成を取り付け、66カ国を巻き込んだボイコットを実現させた。
その結果、モスクワ大会は第二次世界大戦後、最小規模の五輪となった。
しかし、それでソ連に何らかの変化が生まれたわけではない。ソ連がアフガン撤退を開始したのは1988年だが、これは巨額の財政赤字と冷戦終結に向けたアメリカとの交渉を背景にしたもので、モスクワ五輪ボイコットがそこに及ぼした影響は限りなく小さかった。
同じことは、アフリカ22カ国がボイコットした1976年モントリオール大会に関してもいえる。このボイコットはニュージーランド(NZ)選手団の参加が原因だった。その年、NZラグビー代表が南アフリカ代表と親善試合を行なっていたが、南アフリカは当時、白人による有色人種支配(アパルトヘイト)を理由に国連から経済制裁の対象になっていたからだ。
つまり、このボイコットは人種差別批判の延長線にあったわけだが、それで南アフリカ問題が解決したわけではない。南アフリカでは1994年、全人種が参加する選挙が初めて行われたが、アパルトヘイト終結の大きな原動力になったのは経済制裁による疲弊であって、モントリオール五輪ボイコットが果たした役割はごくわずかだった。
通常のボイコットですらそうなのだから、外交的ボイコット、しかもアメリカの他、ごく一部の国しか加わらないのに「中国が何らかの変化をみせる」と期待するのは、あまりに安易というべきだろう。
(5)なぜ外交的ボイコットか?
だとすると、なぜ今回アメリカは外交的ボイコットに踏み切ったのか。
1980年モスクワ大会の時と異なり、今回はアメリカにつき従う国は決して多くない。冷戦時代のアメリカは、途上国を含めて「子分」の面倒をよく見ていたから、国連加盟国の約1/3をかき集めてボイコットすることもできたが、近年のアメリカと中国を引き比べれば、「気前のいい親分」の周囲に多くの者が集まるのは人の世の常だ。
それでもバイデン政権にとって、北京五輪を波風立てずに開催させればそれだけで「負け」になる。そのなかで生まれた外交的ボイコットは、アメリカのいわば苦肉の策といえる。
本格的なボイコットは効果が乏しいわりに、ボイコットする側とりわけスポーツ関係者にダメージが大きい。
そのうえ、五輪は1984年のロスアンゼルス大会以降ビッグビジネスになっていて、1980年モスクワ大会のようなボイコットはアメリカ政府にとって非現実的すぎる。アメリカ選手が参加しなければアメリカ国内でTV視聴率がガタ落ちになることは火を見るよりも明らかで、その場合巨額の資金を投じて放映権を獲得したアメリカの放送局に大きな損失が発生し、下手をすれば政府がその補填をしなければならない。
とすると、外交的ボイコットは中国に「貿易や人権の問題で簡単には譲らない」とアピールしながらも、実質的なコストがほとんどない、最も手軽な反中キャンペーンといえる。米中関係はすでに悪化するだけ悪化しているわけで、「失うものはほとんどない」という判断があれば、なおさらだ(この点で日中関係とは異なる)。
その意味で、外交的ボイコットは新しいものだが、それ単独で重大なインパクトを持つものではなく、米中対立という大きな背景の一コマとして歴史に残るとみられるのである。