「鎌倉殿」頼朝が敗走中に与えた名字の数々 千葉に伝わる“竜島の7姓”とは?
伊豆で挙兵した頼朝軍は、鎌倉へ向かう途中の石橋山で平家方の大庭景親と戦って敗北。現在の神奈川県真鶴町にある「しとどの窟(いわや)」という洞穴に隠れて追手から逃れたとされる。このとき頼朝は、窟の入り口をアオキという植物で塞いで隠してくれた人に「青木」という名字を与え、青木は今では真鶴町で最も多い名字となっている。
また、窟の見張りをした人には「御守」(おんもり)、食事を用意してくれた人には「五味」という名字を与えたという。「五味」とは、甘(あまい)・酸(すっぱい)・辛(からい)・苦(にがい)・鹹(しおからい)の5種の味の総称で、食事がおいしかったことを愛でたものだろう。
なお、「しとどの窟」の所在地は湯河原町である、という説もある。
こうして追手をかわした頼朝一行は、再起を目指して真鶴から舟で房総半島に渡った。このとき頼朝が上陸した場所は現在の千葉県鋸南町竜島(りゅうしま)地区といわれ、ここにも頼朝から名字を賜ったと伝える家が多数ある。戦に敗れた落ち武者である頼朝には「名字」しか与えるものがなかったのだろうが、賜った家では名誉なこととして現在までその名字を伝えている。
竜島の7姓
そこで、頼朝が竜島に上陸した際のエピソードについて『鋸南町史』をみてみよう。
上陸した頼朝は神明の森(現在の神明神社)で一泊した。その折に主人は将兵が左右から多く来て加わることを祈願したので頼朝から「左右加」(そうか)という名字を賜ったという。また、エイを献上した漁師には「鰭崎」(ひれさき)、珍しい貝を献上した浪人の福原民部は「生貝」(いけがい)という名字を賜った。
当時、竜島には18戸ほどの民家があり、それぞれ頼朝から名字を賜ったという。このうち「鰭崎」「生貝」に加えて「松山」「菊間」「柴本」「中山」「久保田」の7つの名字は「竜島の7姓」と呼ばれている。
この他にも、渡船の水主は「艫居」(ともい、艫は船の船尾部分)を賜るなど、鋸南町では頼朝から名字を賜ったと伝える家が多い。
竜島から北上した袖ヶ浦では、地元の立野長右衛門が竹林の竹を切って頼朝の旗竿を作り直した。すると頼朝は「これから気持ちを切り替えていく」と、立野家に「切替」(きりかえ)という名字を与えたという。
江戸時代の拝領名字
このように、殿様が褒美として名字を与えるという習慣は、江戸時代まで広く行われた。
豊臣秀吉は、文禄の役の際に出陣する船団の櫓(ろ)の音が揃ったことから、率いていた武士に「音揃」(おんぞろ)という名字を、徳川家康は本能寺の変後、伊賀越えで三河に逃れる際に、変装するための蓑笠を用意してくれた武士に「蓑笠之助」(みの・かさのすけ)という名前を与えている。
江戸時代にも、殿様に砂糖を献上した「砂糖」家、立派なタイを献上した「鯛」家など、各地に拝領した名字を名乗る家は多い。