運動会、体育祭、文化祭などの行事の中止、本当にそれでいいのか?【学校再開後の重要課題(2)】
例年の今ごろは、春の運動会シーズンですが、今年は、新型コロナの影響で、それどころではない学校もたくさんあります。報道によると、運動会や体育祭、文化祭などの中止、取りやめを決めた自治体、学校も多いようです。感染防止のためという理由で理解できる部分も多いのですが、本当にそれでいいのでしょうか。きょうは、運動会をはじめとする学校行事を原点にもどって考えます。
■福岡市や那覇市などでは、運動会、体育祭などを全校で中止
次のような報道があります。
本稿では、宿泊先や交通機関などとの調整が必要な修学旅行はいったん除き、運動会や体育祭、学習発表会、音楽会、文化祭あたりを念頭において話を進めます(以下、単に「運動会など」と書きます)。これらは学校の裁量しだいで、かなり工夫できる余地があるからです。
運動会などの中止をめぐって、わたしが気になる点を3点にまとめて、共有したいと思います。
■疑問1:本当に選択肢は「中止」だけなのか?
たしかに、運動会などは、児童生徒が密接するシーンもありますし、保護者らが多数詰めかけると、3密状態となりかねません。新型コロナがまだ油断できない時期に開催するのは難しいかもしれません。とはいえ、選択肢は中止以外にもあって、延期や縮小した開催を検討している学校も少なくないようです。
学校や先生方の知恵の見せどころとしては、感染防止と行事を通じた学びの充実が、両立する道を探ることでしょう。
たとえば、開催時期の変更は行った上で、感染状況を見つつ必要なら保護者等の参加はなしで開催するとか、小学校の低学年と高学年に分けてミニ運動会を行うことなども選択肢のひとつかと思います。保護者や児童らのなかには、そういうかたちでは残念がることもあるとは思いますが、中止よりはマシではないでしょうか?
そもそも、運動会などは、保護者のために開催するものでしたでしょうか?
もちろん、保護者や地域の方が参加する貴重な機会ではあるとは思いますし、参加できたほうが、子どもたちにとっても励みになるなど、よいことも多いでしょう。ですが、メインは、保護者等のためということではない、とわたしは考えます。子どもたちが成長する機会にするということでしょうから。そう捉えると、感染予防と行事の充実の両立を図るためには、一部、保護者等にはガマンしてもらう選択肢があっても、理解できます。
ところが、中止以外の選択肢との比較検討や、保護者等とのコミュニケーションを面倒がっているのでしょうか?運動会などを早々に中止すると決める自治体がかなりあるのは、気になります。
■疑問2:授業時間の確保ばかりが重視されていないか?協働的な学びの場である行事を犠牲にしていいのか?
なぜ、行事を早々に中止と決めたのでしょうか。その理由のひとつは、冒頭引用した各種報道でも紹介されています。授業時間を確保したいから、という理由です。
運動会は小学校での一大イベントです。中高の体育祭・文化祭などもそうです。学校によっては、1ヶ月も前から運動会などの準備にとりかかったり、開催1週間前、2週間前は、毎日のように運動会などの練習にあてる例もあると聞きます。
わたしは、以前から、こうした過大とも言えそうな行事の準備は、疑問視していましたし、もっと短縮してもよいのでは、ということは方々で提案してきました(文章末の参考文献などを参照)。保護者等への見栄えや感動を呼ぶことをあまりにも気にして、運動会などを行うことじたいが目的化しているのではないか、とも申し上げてきました。組み体操をめぐる過熱などはその典型例のひとつです。
この思いは、いまも変わりません。一方で、運動会などの中止の背後には、今度は、授業時間の確保が目的化しているような風潮を感じます。
たしかに、未曾有の休校(臨時休業)のあとの学校再開。あまりにも授業時間をカットしたり、スピードアップしたりしては、置いてきぼりになる児童生徒も増えないか、心配です。そこは気を付けないといけませんが、かといって、授業時間確保が至上命題のようになっているのは、疑問です。質や生産性などは横に置いておいて、量の確保をして安心する考えがあるのではないでしょうか?
そもそも、運動会などの行事はなんのためにあるのでしょうか?
学校行事は特別活動の一部ですが、学習指導要領では、特別活動の目標として、次のとおり記述されています。
※中学校、高等学校についても同様の記述
ざっくり申し上げると、学校行事などでは、他者と協働しながら、課題解決や合意形成、人間関係づくりなどを学ぶことが重要視されているわけですね。もちろん、小学生低学年と高校生などではレベルも程度もちがってくるでしょうが。
こうした資質・能力は、社会人である方なら、ずいぶん実感されていると思いますが、社会に出たあと、すごく大事になってくることですよね。いくら、ペーパーテストの成績が優秀でも、他人と協力したり、合意形成を図ったりすることが苦手なヤツは使えない、という仕事はたくさんあると思います(例外もありますが)。
見方を変えると、各教科の知識・技能は、ある程度は、個々の独力で進めることができたり、ICTなどを活用して、「個別最適化」と最近よく言われますが、個々の習熟度などに応じた学習を進めたりすることは可能です。もちろん、他者といっしょにやったほうが進むし、深い学びになるという場合も多々ありますが。
今回の休校で、なにがわかったでしょうか。そのひとつは、やはり学校には、「子どもたちが集まるからこそのよさ、学びが深まることがある」ということではないでしょうか。
かなり乱暴に整理しますが、教科書を前に進める、終えるだけなら、集まって学ぶ意義は、それほど大きくないかもしれません。極端に言えば、うまい先生の授業動画を視聴することでも進みます。一方、学校行事などで推進する、他者と協働するなかでの学びは、オンラインでも一部はできますが、集まって、対話を通じて、また、ときには対立、衝突するなかで、育まれる部分が大きいと思います。
※各教科等でも他者と協働した学びを推進する要素も多々ありますから、上記はかなりざっくり申し上げていますが、”教科での学び VS 行事での学び”は、必ずしも二項対立や二律背反ではありません。むしろ、運動会等と各教科は関連付けて推進していくものでしょう。
わたしが、運動会などの行事の中止の報道に接して、気になったのは、本来、こうした教育上の重要な要素や、子どもたちの成長の機微な部分について、敏感なはずの教育委員会が、十二分に考え抜いて、中止という決断をしたのかが、見えてこなかったことです。
過重な準備や過激な演出はないかたちで、学校行事は残しつつ、教科書を進める学習は授業とICTなどを併用しつつ、多少のスピードアップを図るという考え方もあろうかと思います。なお、文科省も、やむを得ないときは、一部の単元等を翌年度に繰り越すことがあってもいいと通知しています。
ひょっとすると、教育委員会等は、いまの子どもたちに、どのような学びが必要なのか、優先順位を取りちがえているんじゃないか、というクエスチョンマークが付いたのです。
※以上は妹尾の偏見かもしれません。うちの教育委員会や学校はちがうよ、という声もどんどん上げてください。
■疑問3:子どもたち不在で進めていいのか?
最後にもう1点だけ、気になることを申し添えます。それは、運動会などのあり方、開催の是非について、ほとんど子どもたちの声や意見を聞くことなく、進められてきていることです。
再び、学習指導要領を読み返すと、特別活動では、児童生徒が「主体的に考えて実践できるよう」にということが強調されています。
※なにも学習指導要領を金科玉条にするつもりはありませんが、ひとつの重要な拠り所にはしていくものと捉えています。
「新型コロナの感染や授業時間の確保が心配だから、今年の運動会や文化祭は中止します」と教育委員会(または学校)から文書がひとつ来るだけ。それで、本当に子どもたちが主体的に考えて実践することを重視した学校教育と言えるのでしょうか?
むしろ、「決められたことには、黙って従いなさい」という教育をしているのではないでしょうか?少し専門用語ですが、これも「隠れたカリキュラム」のひとつと、わたしは考えます。
関連して、本来、学校行事の開催うんぬんは、教育委員会の権限でもありません。教育課程を編成するのは校長の権限と裁量ですから。校長会などと協議した結果、教育委員会も中止などを決めているのでしょうが、「校長たちに、主体性はあるのでしょうか?」「そんななかで、本当に子どもたちの主体性や対話する力は、育つのでしょうか?」・・・こう申し上げると、言い過ぎかもしれませんが。
少しまとめます。きちんと対話、議論して、優先順位などを検討した上で、一部の行事を中止、精選するということはあっていいでしょう。しかし、どうも、そうは見えない事例が多いように思えます。
疑問1:本当に選択肢は「中止」だけなのか?
疑問2:授業時間の確保ばかりが重視されていないか?協働的な学びの場である行事を犠牲にしていいのか?
疑問3:子どもたち不在で進めていいのか?
少なくとも、この3点はしっかり考えて、答えてほしいと思います。
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(参考文献)
妹尾昌俊(2019)『こうすれば、学校は変わる! 「忙しいのは当たり前」への挑戦』教育開発研究所
妹尾昌俊(2020)『教師崩壊』PHP新書