運動会はなんのため?だれのため?
運動会をめぐる、もっとも重要な論点
春の運動会シーズン、真っ盛り。最近のニュースでも、午前開催の”時短”運動会が増えてきていることや、危険性の高い組み体操を続ける学校があることなどが紹介されていた。
運動会の時間やプログラムについて考えるのは大事なことだが、もっとも重要な論点が十分に確認されないままになっている、と思う。
それは、実にシンプルな問いだ。
「運動会はなんのため?だれのため?」
この問いがきちんと考えられていないのでは、とぼくが感じるのは、たとえば、午前開催への反対意見として「お弁当を食べる楽しみがなくなるのは残念」といった話が出てくることだ。運動会はお弁当を楽しむためにやっているのだろうか。もちろん、そんなことはない。(仮にその趣旨がそれほど大事なことなら、別途お弁当を食べる日を開催したらよいし、あるいは各ご家庭で勝手に楽しめばよい。)
また、危険性の高い、7段ピラミッドの組み体操を実施しようとしているある学校は、こう取材に答えたという。
「集団作りの効果」とは、どんなことを言っているのだろうか。どうもはっきりしない。
この学校のコメントは一部分だけが切り取られて報道されている可能性もあるが、かなりオカシイ。仮に集団作りの効果があるとしても、だからといって重大な事故につながる危険を冒してまでやるべき、ということにはならない。それに、集団づくりは別の方法でも進められるはずだ(たとえば、サッカーなどチームスポーツを体育の時間に集団づくりとやらを絡めて充実させること)。ついでに言うと、過去事故がなかったというのは、たまたまラッキーだったという可能性もあり、他校で事故の事例が相次いでいるなかでは、根拠にならない。
つまり、
●運動会の目的と目標がきちんと明確になっていない。
関係者のあいだで(保護者だけでなく、おそらく教職員の間ですら)腹落ちしていない。
●その目的、目標に照らして適切な手段となっているかが十分に検討されていない。
という問題が上記のニュースからも見えてくる。
保護者を喜ばせるためか?
ぼくが働き方改革の講演や研修をしていて、運動会など行事はもっと見直せるという話をすると、きまって、こんな声が教職員から聞こえてくる。
「去年のほうがよかった、盛り上がった」といった保護者等の声も予想されて、なかなか見直せない。
先ほどの組み体操でも「保護者からの異論も聞いていません」という言葉が出ていたが、学校は保護者の期待を”忖度”していることが多いようだ。だが、ここでも大事なのは、「運動会って、保護者を喜ばせるためにやっているんでしたっけ?」という問いだ。肝心の児童生徒のことが置き去りにされていないだろうか。
中央教育審議会(中教審)の学校の働き方改革についての答申のなかにも、こんな一節がある。
運動会の開催は、マストではない
運動会はなんため、だれのためか。小学校の学習指導要領(H29告示)を読んでみよう。なにも指導要領を金科玉条にする必要はないが、大事な拠り所のひとつではあるはずだ。
ところが、なんと、指導要領には一言も「運動会」という言葉は出てこない。この事実を教職員は知っているだろうか?
正確に言うと、特別活動の学校行事のひとつとして、「健康安全・体育的行事」という記述はある。この体育的行事のひとつの例として、運動会はある。(指導要領の本体ではなく、解説には運動会との文言は出てくる。)
極端な話をすると、「うちは運動会はしません」という学校があってもよいわけである。健康安全・体育的行事を全くなくしてしまうのは指導要領上も問題があるかもしれないが、そんな学校はほとんどないと思う。
ぼくが言いたいことは、「働き方改革の一環で、運動会なんてやめてしまえ」ということではない。運動会には教育的意義や効果もあると思うし、保護者目線からしても楽しみだ。だが、「マスト(Must)ではないわけだし、保護者のためのものでもないのだから、もっと柔軟にプログラム内容や準備の負担を見直していきましょうよ」ということを確認したい。
学習指導要領で、健康安全・体育的行事の記述は下記のとおり。
これをもとにすると、運動会も、責任感や連帯感の涵養、体力の向上などに資するものにしていく必要がありそうだ。とはいえ、繰り返しになるが、必ずしも運動会だけでそれを進める必要はないし、ましてや、組み体操などで進める必然性はない。
ちなみに、指導要領本体では、「行事及びその内容を重点化するとともに,各行事の趣旨を生かした上で,行事間の関連や統合を図るなど精選して実施すること」とある。ところが、多くの小学校では運動会は”重い”。何名かの教員に尋ねたところ、「2、3週間は毎日2時限分くらい運動会の練習をする」という学校もかなりあるようだ。リレーや応援団、鼓笛隊などがあると、朝練や昼休みも潰しても練習するという学校もある。
これらを一概によい悪いと言える話ではないが、運動会の目的やねらいに照らして、そこまでやらなくてもよいだろう、と感じる例もある。部活動の過熱化に非常に似た様相だ。個人的には、体育の延長のようなかたちで、いまほど特別の準備時間は少なくして、もっと普段着の行事にしたらよいと思う。
児童を教師の言いなりに動かすのが運動会ではない
関連して気になるのは、整然としたパフォーマンスをめざすあまり、児童生徒を統制する、規律づけることに躍起になっているのではないか、と思われる例もあることだ。「正直、運動会の練習は憂鬱だ」という子どももいる。小学校の学習指導要領の解説では、次の記述があるのだが、どれだけの教職員がちゃんと読んで、考えているだろうか。
「児童自身のものとして実施する」とわざわざ書かれた意図を重くみたい。こんなこと、文科省に言われなくても当たり前の話なのだが、その当たり前がいつの間にか、置き去りにされてはいないだろうか。
ちなみに、運動会の歴史を紐解くと、海軍の幹部を育てる海軍兵学寮でのものが最初とのこと。英国のアスレチックスポーツを「競闘遊戯」と訳したものが、起源。当時は短中距離走、走り高跳び、二人三脚などに加えて、豚追い競争(油をぬってツルツルした子豚をつかまえる)なんてものもあったそうだ(毎日小学生新聞2016年9月4日)。
初代文部大臣森有礼のときに運動会と兵式体操が全国の学校で行われるようになったが、「気を付け、前にならえ、全体前に進め」などは、その頃の名残りであるようだ。
運動会で規律を重んじることは、こうした歴史な経緯にも根ざしているようにも思うが、子どもたちを軍隊のように訓練する必要はない、ということは、誰もが賛同されると思う。さすがに、軍隊の教練とまではいかないという学校はほとんどだと思うが、保護者等への見栄えや例年やってきたことを気にするあまり、キビキビと動き、教師の言うことをきく児童を育てることに、いつの間にか相当な時間と労力をかけている学校はあるのではないか。
アクティブラーニングとか、主体性を育むことが一層大事になっている時代に、これではチグハグだ。
もう昭和でもないのだから、「運動会はなんのため?だれのため?」という原点に立ち戻って問いなおし、令和時代にふさわしい、運動会のあり方を考えるときだ。
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