82歳の老人・宮崎駿監督の『君たちはどう生きるか』 見る者にもっとも必要な「覚悟」とは何か
86年の時を隔てた『君たちはどう生きるか』
『君たちはどう生きるか』はもともと吉野源三郎が昭和12年に書いた小説である。永く読まれている。
86年経って令和5年、宮崎駿が同じタイトルのアニメ映画を監督した。
原作ではないし、両者のストーリー展開に類似性はない。
宮崎駿アニメのおもな舞台は昭和19年以降であり、吉野源三郎の描いた世界と決定的に違っている。昭和12年夏を境に、日本国民の気分は大きく変わる。吉野の小説が描いたのはそれ以前の世界であった。
「賛否でいえばピッ!です」という大学生
知り合いの大学生はみなアニメ好きなので、公開されてすぐ、かなりの連中が観ていた。
聞いてまわると、やはりあまり評判がよくない。
ミステリー好きの青年に「きみは、賛否でいえば、賛か否か」と聞いたら、すぐさまに「ピッ! です」と答えてきた。
事前情報はそれで把握できた。
「これはおそらく、老人が作ったストーリーのない映画なのだろう……」
若者の中を流れる空気から、そういう内容が想像できた。
『ラピュタとか、もののけ姫とか』という期待
幾人かに聞いてまわると、いろんなことがわかる。
おもしろくないと否定的な連中は事前の期待が高い。
「ラピュタとか、もののけ姫とか、そういうの」を期待して見に行ったらしい。
なんとまあ、と少しおどろく。
宮崎駿の新作映画だから「ラピュタ」のようなものを期待しているという言葉を2023年に聞くとはおもわなかった。現代人に欠けているのは「日常における冒険力」ではないかと、あらためておもってしまう。
人がずっと同じところで留まっているとおもっているかのようだ。
クリエイターの年齢を気にする
クリエイターの年齢を私はいつも気にする。
昭和2年生まれと昭和16年生まれが作るものは、その世界観の基底が決定的に違う。ましてや40代の人が作るものと、80代の人が作るものは、込められているものが違う。
映画や小説ではそこを私は気にする。
宮崎駿の新作アニメと聞いて、え、彼は何歳だっけと、まず反射的におもった。
昭和16年生まれだから今年の1月で満82歳、数えて83である。
日本が米英に宣戦布告する11か月前の生まれで、終戦時で満4歳、戦争に関する意味ある記憶はあまりない世代である。
「そうか、82歳の老人の作ったものを見に行くのか」
というのがまず最初に腹に決めたことである。
「世界のクロサワ」の1990年代体験
私には黒澤明の経験がある。
いや、私だけの経験ではない。かなりの多くの日本人が同じ経験をしたはずなのだが、ただあまり執拗に記憶していないのかもしれない。
「世界のクロサワ」の映画は1950年代に評判となり、世界的評価を得て、国内でも人気となった。
その黒澤明は、自身の年齢が60代になったとたん制作ペースが落ち、でも晩年80代になってから続けさまに三作を作った。
最後の三作『夢』『八月の狂詩曲』『まあだだよ』が作られたのは1990年代のことである。
『七人の侍』『用心棒』『天国と地獄』など、血湧き肉躍る作品を作ったクロサワではあったが、ああ、80を超えた人にそういうものを期待してもだめなのか、と1990年代の映画館でつくづく感じ入った。
おもしろくないということではなく、もう、作る世界がまったく違っているのだ、という事実である。
人を動かすものを作るにはおそろしく体力がいる
黒澤が「血湧き肉躍る」映画を撮っていたのは、40代から50代である。
80代のクリエイターに同じものを求めても、それは無理というものだ。
40代のプロ野球選手やプロサッカー選手はたまにいるが、そういうレベルのスポーツで80代の現役アスリートは存在しない。根本的な体力が違う。
人を動かすものを作るには、おそろしく体力がいる。
たとえば文章であっても、体力がないと書けない。
プロの物書きはそのことをみな自覚している。
80歳90歳で傑作を書き「続けた」小説家は、いない。その年齢でも単発的に見事なスマッシュヒットを放つ人はいるが、人をねじ伏せるような大作を連発できるのは30代40代50代、そのあたりだ。
夏目漱石は49歳で死んでいる。
人に指示することの多い映画監督はもっと体力がいるだろう。
私は黒澤明を通して、ある種の諦観を持つようになった。
人を元気にさせるものを作るのはやはりある程度の若さが必要なのだ。
もちろん老人には老人ができる仕事がある。でもそれは40代の仕事とは別物だ。
82歳の素敵な爺さんの噺を聞きにいく
『君たちはどう生きるか』を観に行くということは、82歳の素敵な爺さんの噺を聞きにいくことだ、と、そう気持ちを固めていた。
老人の落語を聞きにいくときの気分と同じだ。
三笑亭茶楽が宮崎駿のひとつ下である。ときどき末広亭に茶楽主任の落語を聞きにいくが、茶楽の高座は老芸人のいろんな野望と諦めが交互に光っていて、なかなか目が離せない。
でもとても気楽に聞ける。
春風亭一之輔(45歳)や桂宮治(46歳)の落語を聞きに行くときとは、心構えが違う。
老人の噺は老人の噺である。
80代の人には「血湧き肉躍る」展開は期待しない。
それなりのものを想像して出向く。
それだけのことである。
80代の老監督が描く「どう死ぬのか」
(以下、映画内容のネタバレがあります)
アニメ映画『君たちはどう生きるか』も、私はそういう心持ちで観に行った。
その態度はたぶん合っていたとおもう。
ふつうに静かに受け止められた。
宮崎駿の大傑作とはおもわないが、これはこれでいいとおもった。
この映画で扱っているもののなかで、私がいっとう気になったのは「死」である。
80代の老監督が描く「どう死ぬのか」という視点は、やはり死のほうから描いているように見えた。そこに老監督作品の意義がある。
死の要素の強い異世界
映画のなかに出てくる「下の国」は生と死の世界とされていたが、私には強く「死」の要素ばかりが感じられた。
「下」の世界はうつし世ではなく、「異世界」である。
日本神話の「黄泉の国」のようであり、それでいながらアリスが迷い込んだ「ワンダーランド」のようでもあった。
不思議な世界を複層的に描くのが、宮崎映画の特徴だ。
この映画は「母恋いの物語」
死の中心は、絞れば「母の死」であろう。
この映画は、見方によっては「母恋いの物語」だともいえる。
(宮崎映画はいろんな見方ができるものなのだ)
主人公の少年はわりと近い時期に、母を火事でなくしている。
そして異世界に入ると、そこで「少女時代の母」と出会う。
彼女は「火を操るヒミ様」として現れる。
「少女時代の母」に会いたくて見ているばかり
躍動的に動き、二人で何だかを(たぶん観念的世界像か何かを)救う。
そして「うつし世」の別々の場所に戻る。
別々の扉をくぐろうとするときの二人の姿がとても心に残る。
記憶の中にしか母がいない者にとって、母が少女として生き生きと走るシーンは、ただひたすら胸を打たれる。
『君たちはどう生きるか』を私は映画館で繰り返し見ているが、ただ「少女時代の母」に会いたくて、見ているばかりである。
老人がこさえたものを見にいくんだからという覚悟
わかりやすい作品ではない。
全体としていえば、やはり老人の作品らしく、ややとりとめがない。
とにかくいろんな要素を詰め込んでしまえという作り方をする宮崎映画は、いわば腕力でその雑多世界を強引にお話にして見せていたが、もう80代だからその「たが」を少し緩めたのだろう、とおもって見ていた。
彼の新作映画を見続けて30年以上、これはこれでいい、とおもってしまう。
「ラピュタのような40代の元気な時代の作品イメージ」を持って見にいかないほうがいいというのだけはたしかだ。
80代の老監督への期待の仕方というものがある。
老人がこさえたものを見にいくんだから、ということを忘れない。
たぶん、その覚悟がもっとも大事だとおもう。