【その後の鎌倉殿の13人】北条泰時重病!その時、叔父の時房が酒宴を止めず見舞いにも行かなかった深い訳
延応元年(1239)4月25日、北条泰時は突然、病となりました。夜になると「心神違乱」(意識障害)となったともいい、危険な状態でした。泰時の病を聞きつけて、多くの人々が邸に駆け付けてきます。伊賀光重は4代将軍・藤原頼経の使者として見舞いに駆け付けます。折りも折り、泰時の叔父・北条時房(北条義時の弟)は「酒宴乱舞」の真っ最中でした。当然、時房にも泰時が重病であることが告げられます。すぐに宴を中断して、泰時邸に駆け付けるかと思いきや、時房は酒宴を止めませんでした。そればかりか、見舞いの使者も派遣しなかったのです。宿老や仕える人々は、時房に諫言します。すると時房は「自分がやっているような遊戯・歓楽は武州(泰時)が生きているからこそ、できること。武州が亡くなられたら、どうして世を渡っていくことができようか。そうなれば、ずっと隠居して宴会などやらぬ。これが最後の宴会になるかもしれんので、私は席を外さないのだ」(鎌倉時代後期の歴史書『吾妻鏡』)と答えたのでした。その言葉を聞いた人々は、感動の涙を流したといいます。時房は泰時のことを深く思っていたからこそ、見舞いに行かなかったのです。鎌倉幕府を支える叔父(連署)と甥(執権)の信頼関係がよく分かる逸話であります。