反「人道」は加速するか:国際刑事裁判所からのアフリカ諸国の離脱
10月25日、アフリカのガンビアが国際刑事裁判所(ICC)からの脱退を宣言しました。その前の週、南アフリカとブルンジがやはりICC離脱を宣言していました。
アフリカで相次ぐICC脱退宣言に関して、日本政府は「残念」としていますが、日本では取り立てて大きく伝えられることはありません。しかし、この事態は世界全体にとって小さくないインパクトをもちます。
ICCは戦争犯罪や人道に対する罪を裁くために設置された国際裁判所です。今回、アフリカからいくつかの国が脱退を宣言した大きな理由は、「他の地域でも深刻な人道危機や犯罪があるのに、アフリカが狙い撃ちにされている」というものでした。
これは、戦時であっても許されるべきでない「普遍的な人道」の理念と、その実際の運営に政治的判断が働きがちなことの間にある、矛盾や対立を表面化させたものといえます。そして、この対立は冷戦終結後の国際秩序の動揺を象徴するものであります。
ICCの権能
ICCは2002年に発効した国際刑事裁判所ローマ規定によって設立され、2016年6月現在、締約国は日本を含む124ヵ国にのぼります(先述のように、そこから既に3ヵ国が脱退を宣言した)。
ICCの管轄権の対象は、集団殺害犯罪(組織的な大量虐殺、ジェノサイド)、人道に対する犯罪(大量殺人、強制移住、奴隷化、集団レイプなど)、戦争犯罪(文民保護など交戦規則からの逸脱)、侵略犯罪です。
ただし、これらが発生した場合、ICCがすぐに対応するわけではありません。基本的には各国で捜査や訴追が行われることになりますが、その国(ICC締約国であることが前提条件)の意思や能力が充分でない場合、その同意に基づいて、ICCがこれに対応することになります。また、国連安保理の付託がある場合も、ICCは捜査・訴追を行えます。つまり、ICCは原則的に、各国の捜査権を補完するものと位置付けられているのです(補完性の原則)。
このように補完的な役割であることは、当該国の国家としての主権を尊重しながらも、深刻な人道危機に対応できない場合に、国際的な関与のルートを確保するものといえます。
国際秩序の一つの柱としての人道
ICC設立の動きは、1990年代にさかのぼります。冷戦終結後の世界では、超大国同士の核戦争の脅威が去った一方、多くの国なかでも開発途上国で、それまで抑え込まれていた民族・宗派間の対立が噴出。旧ユーゴスラヴィアやルワンダなどでは、数十万人が虐殺される事態にまでエスカレートしました。
この時代は、CNNやBBCなどの衛星放送が普及し、非人道的な行為が「国際世論」に影響を及ぼし始めていた頃でした。
これも手伝って、それまでは「一国内の問題」として扱われ、「内政不干渉の原則」に基づいて、他国が関与すべきでないとされていた事柄に、欧米諸国が関与することも増加。1999年、旧ユーゴスラヴィアのセルビア共和国の一部だったコソボ自治州で、分離独立を求めるアルバニア系住民に対するセルビア系住民やセルビア軍の攻撃が増えるなか、アルバニア系住民を保護するためにNATOが軍事介入を行ったことは、その象徴でした。
このとき、コソボを領有するセルビアはNATOの介入を拒絶しました。セルビアと歴史的に関係の深いロシアや、やはり国内に少数民族問題を抱える中国は、「国家主権の尊重」を強調してセルビアを支持し、国連安保理で西側諸国と対立。「人道が主権より優先されることがある」と主張する西側諸国は、これを押し切る形で「人道的介入」と銘打った軍事介入を行ったのです(NATOによって解放されたコソボは住民投票を経て2008年に独立を宣言した)。
こうして、1990年代後半から「人道」は各国が共有するべき共通の価値に位置づけられ、市場経済や民主主義とともに、西側主導の国際秩序を支える柱の一つとなったのです。従来、一般的に各国内の問題として扱われてきた、戦時下での人道危機を裁くICCは、この背景のもとで設立されたのです。その権能に補完性の原則が適用されたのは、コソボ内戦などで噴出した「人道vs.主権」の対立を克服する必要があったからでした。
アフリカに広がる不満
しかし、メンバー国の離脱が相次いだように、たとえローマ規定の締約国であったとしても、開発途上国なかでもアフリカ各国の間からは、ICCへの不信感が徐々に表面化し始めました。その最大のポイントは、ICCがこれまで容疑者の逮捕・起訴、裁判に至ったケースのほとんどがアフリカということでした。2016年現在までにICCの調査・訴追の対象になったケースは10ヵ国ありますが、このうち9ヵ国までがアフリカの国です(残り1ヵ国はジョージア)。
これに関して、例えばガンビアの情報相はICC離脱に関する表明のなかで、「ICCはイラク戦争など西側諸国の戦争犯罪を起訴の対象としない一方で、アフリカ人やその指導者を政治的に迫害しており、その実態はアフリカに屈辱を与えるための国際白人裁判所である」と非難しました。
今回の連続脱退の直接的な火種は、2015年6月に南アフリカで開催されたアフリカ連合首脳会合で、スーダンのアル・バシール大統領が出席したことにありました。バシール大統領は、2003年に同国で発生したダルフール紛争で、多数のアフリカ系住民を攻撃・殺害してきたアラブ系民兵組織「ジャンジャウィード」に指示・命令を下し、武器・資金を提供した嫌疑で、現職の国家元首として初めて、ICCから指名手配されている人物です。
南アフリカはICC締約国。そのため、南ア裁判所はバシールに出国停止命令を出しましたが、南ア政府は会議終了後に彼の帰国を引き止めなかったのです(南ア裁判所は政府のこの対応を「不名誉なこと」と非難している)。
前任のムベキ大統領にリベラル色が強かったのに対して、現在のズマ大統領のもとで南アフリカ政府は国家主義的な様相を強めています。さらに、もともとアフリカ各国は国際的な問題に結束して臨む傾向があります。小国の多いアフリカにとって、「数の力」は数少ない交渉力の源です。そして、アフリカでは人道や人権を理由に欧米諸国から干渉されることへの拒絶反応が根深くあります。そして、以前にも述べたように、現代では中国など新興国がドナー(援助国)として勢力を広げており、この環境のもとでアフリカ諸国には「選択の余地」が広がっています。
この背景のもとで生まれたバシールをめぐる南アの反応は、「人道」をめぐるアフリカと欧米諸国の軋轢を表面化させたのです。
「人道」の偏りは認められるべきか
ICC脱退に関するガンビア情報相の主張は、何も目新しいものではありません。権力が国家に集中する国内では、対象が誰であれ、法に反した者は基本的に処罰の対象となりますが、「世界政府」というものがない以上、国際法を自動的かつ無差別に適用することは不可能で、「声の大きい者たち」の政治的判断に左右されがちです。
実際、例えばスーダンに対するICCの調査は2005年の国連安保理決議1593によって付託されたものでした。ところで、安保理常任理事国のうち、ICC締約国は英国とフランスだけで、米中露はそもそもICCのメンバーではありません。
このうち、米国は「米軍が訴追の対象となり得る」ことからICCの締約国になっておらず、その一方でバシール率いるスーダンを「テロ支援国家」に指定して、1990年代からこれと敵対してきました。一方、スーダンで油田開発を推し進め、バシール政権とも友好関係にある中国は、ダルフール紛争を理由とする国連の経済制裁にも反対した経緯があります。この背景のもとで行われたICCに付託する安保理決議は、北京五輪を控えた時期にダルフール紛争への悪評が高まるにつれ、さらにバシール政権をかばうことで「道づれ」になることを恐れた中国が拒否権を発動しなかった(棄権した)ことで実現しました(決議の項目に不満があるとして米国も棄権したが、大筋では承認した)。
その一方で、例えば2013年10月に二大国際人権団体、アムネスティ・インターナショナルとヒューマン・ライツ・ウォッチは米国がパキスタンやソマリアで行っている、ドローン(無人機)を用いたテロ掃討作戦が、対象を十分に確認したり、テロリストであっても投稿を促したりせずにいきなり殺害するもので、戦争犯罪に当たる可能性を示唆しました。しかし、もちろんというべきか、ICCでこの問題が検討された形跡はありません。
同様に、2014年のロシアによるクリミア半島編入の前後から、ウクライナでは戦闘が続き、そのなかで親ロシア派、親欧米派のそれぞれによって組織的な大量殺人も発生したと西側、ロシア双方のメディアで伝えられていますが、こちらも同様です。
つまり、「人道」を理由に介入・訴追するにせよ、黙殺するにせよ、国際秩序の中核に位置する欧米諸国の政治的意思が反映されやすいことは確かです。そのため、大国自身が関与するケースにICCが首を突っ込むことは、ほぼ皆無です。人道の理念そのものが普遍的であったとしても、その運用が大国の恣意的な判断や力関係に基づくこと、最大限控えめに言ったとしてもケースバイケースであることは、国際政治の冷厳な現実を反映したもので、ICCに限らず「人道的介入」などにも共通するものです。
「アフリカの声」のバイアス
ただし、先ほどのガンビア情報相の主張を額面通りに受け取ることもできません。
脱退を表明したアフリカ諸国やその支持者の言い分は、交通違反の取り締まりを受けて逆上し、「他の連中だってやってるじゃないか」と警官に食ってかかる人と同じで、自らにも「スネに傷がある」ことを認めるものに他なりません。また、各国政府から国連に対するPKO派遣の要請の多くをアフリカが占めている(2016年現在で展開中の16ミッションのうちアフリカ大陸のものが9つ)ことからみても、アフリカの治安に大いに問題があり、アフリカ自身がそれに十分対応できていないことは確かです。そして、人道を理由とする外部からの干渉を拒絶し、国家の主権を強調することが、「独裁者」による不公正な支配を擁護する方便にすぎないことも、珍しくありません。
これに加えて、アフリカの、特に紛争中・紛争後の国には、司法・警察機構の不備によって、本来それぞれの国内で裁かれるべき罪が裁けない状態の国も少なくありません。そのため、例えば2013年からICCの調査が開始された、マリでの戦争犯罪をめぐるケースのように、その国の政府自身がICCの捜査・訴追を求めるケースの方が数としては多数派で、2016年現在までに調査・訴追されたアフリカ9ヵ国の事例のうち5ヵ国を占めます。
こうしてみたとき、アフリカ自身に少なからず責任があることや、「アフリカの声」を代弁するかのような主張にバイアスがあることもまた、確かです。実際、アフリカのなかでも、(西側との関係を重視する小国)マラウィのようにバシール引き渡しに積極的な国もあります。
「自分を例外にする者」の説教は内容がいかに高邁でも説得力を欠く
一般的な原則としていうなら、戦時であっても非人道的な行為は認められるべきでないでしょう。したがって、ICCに恣意的な判断が働くとしても、「可能なところから手を着ける」ことによって、やがて「非人道的な行為を慎むべき」という規範がグローバルに普及し、虐殺などを抑制する効果が期待できる、という意見もあり得るでしょう。
ただし、例えば教師や聖職者のように、いわば正論を他人に強要する人間ほど、自分を例外扱いすれば、その主張の説得力を低減させるばかりか、ただ「正論を自らに都合よく用いている」という反感を招きがちです。「正論」を吐く者の力が強ければ、なおさらです。ICCメンバーでない米国が、バシールの帰国を許した南アを批判し、そのICC脱退に「懸念」を表明したことは、これを象徴します。
これらに鑑みれば、ICCの捜査・訴追の対象が集中するアフリカ諸国に、欧米諸国の「ダブルスタンダード」に対する不満があったとしても、不思議ではありません。それは、「人道」の規範が広がることにブレーキをかける効果すらあります。
地理的にアフリカに分類される国は54カ国に登り、国連加盟国のおよそ4分の1を占めます。その多くはアフリカ内部の動きと西側の反応の様子見にあるため、アフリカ諸国がこれ以上雪崩を打ってICCから脱退するかは不透明です。ただし、仮にICCからアフリカ諸国が大挙して抜ける事態になれば、西側主導の国際秩序の一つの柱である「人道」が空洞化することは避けられません。
「法の支配」の原則は、専制君主による「人の支配」から個人の安全や権利を守るものとして生まれました。国際法もまた、国家間関係を大国間のむき出しの力関係から解放し、「より文明化」するものとして発達しました。しかし、「ケースバイケースの普遍性」の矛盾に起因するICCをめぐる対立は、理念はともかく、実際にはその法すらも大国の道具になりがちであることを改めて示すと同時に、「説教」を嫌がるアフリカ諸国によって、西側主導の秩序のヒビが大きくなる様相をも示しているといえるでしょう。