【その後の鎌倉殿の13人】北条義時の死によって鎌倉に戻った息子の北条泰時が面会した大物の正体
貞応3年(1224)6月13日、北条義時はこの世を去ります。義時の嫡男は北条泰時。寿永2年(1183)の生まれであり、母は阿波局という御所の女房だったと言われます。大河ドラマ「鎌倉殿の13人」では、伊豆国伊東の豪族・伊東祐親の娘の八重が義時に嫁いで、泰時を産むという説が採用されていました。
泰時は、承久3年(1221)に勃発した承久の乱(後鳥羽上皇が北条義時の追討を掲げて挙兵)においては、叔父の北条時房(義時の弟)とともに大軍を率いて、東海道から上洛。後鳥羽上皇方の軍勢を破って、幕府方の勝利に貢献しました。
乱後、泰時は六波羅探題(鎌倉幕府が京都の六波羅に設置した機関。洛中の警固や西国御家人の統制などを任務とした)として、都に駐留することになります。しかし、1224年6月13日に、父の義時が急死したことによって、急遽、鎌倉に戻ることになるのです。
泰時が鎌倉に到着したのは、6月26日のことでした。翌日、泰時は前もって修理をしていた鎌倉の邸に入ります。そして6月28日、泰時は、ある大物女性と対面します。
それが、北条政子です。伊豆国の豪族・北条時政の娘として生まれるも、伊豆に流罪となっていた源頼朝と結ばれた政子。娘の大姫・三幡、息子の源頼家・源実朝たちの死を見つめ続けた1人の母でもありました。
承久の乱勃発の際、政子が、御家人たちに幕府の恩を説いて奮起を促した逸話は有名です。政子は、3代将軍・実朝死後に、その後継者として都から鎌倉に下ってきた左大臣・九条道家の子で2歳の三寅(後の藤原頼経)に代わって、政務を後見していました。
さて「尼将軍」政子と対面した泰時。2人は何を話したのでしょうか。