乳児「揺さぶり死」で父親に無罪判決 検察の主張はなぜ崩れたのか?
父親が生後1か月半の我が子に対する傷害致死罪に問われていた裁判員裁判で、大阪地裁は11月20日、無罪の判決を言い渡しました。
刑事裁判では99%が有罪となるだけに、翌日の新聞やテレビは、このニュースを次のような見出しで大きく報じました。
<乳幼児揺さぶり死 父親無罪 大阪地裁判決『原因に疑い残る』>(『読売新聞』2018.11.21)
また、同日、インターネットで配信された読売新聞ニュースでは、判決の概要を以下のように報じていました。
陸くんが亡くなったのは2年前、2016年10月のことです。
父親の楢崎さんが逮捕されたのはそれから10カ月後、2017年8月のことでした。
私は当時から、「乳幼児揺さぶられ症候群」を疑われて親子分離されたり、刑事訴追されたりした他の事件を複数取材していたこともあり、逮捕時のニュースを鮮明に覚えていました。
楢崎さんは「朝日新聞」(2017.8.2)に掲載された以下のコメントの通り、当初から一貫して暴行を否定していたのです。
しかし、このやり取りから約7カ月後、楢崎さんは傷害致死罪で大阪府警に逮捕されてしまいました。
■「乳幼児揺さぶられ症候群」とは?
なぜ、楢崎さんは「傷害致死」の容疑をかけられ、逮捕されることになったのか?
その説明の前に、彼が逮捕される根拠となった「乳幼児揺さぶられ症候群」について少し説明しておきましょう。
すでに執筆した記事『事故か、虐待か?「乳幼児揺さぶられ症候群」めぐり、分かれる医師の見解』でもレポートしましたが、「乳幼児揺さぶられ症候群」は、英語では、「Shaken Baby Syndrome」(略してSBS)、また、「虐待性頭部外傷(Abusive Head Trauma=AHT)と表記されることもあります。
ごく簡単に言うと、乳幼児の頭部に、
1)硬膜下血腫
2)眼底出血(網膜出血)
3)脳浮腫
の3つの症状がみられる場合、一緒にいた大人による激しい揺さぶり、つまり“虐待”を疑うべきであるという理論です。
1970年代に欧米で唱えられたこの仮説は、その後、1980~90年代にかけて、「3つの症状があれば、揺さぶったと推定できる」という理論として世界に広まっていきました。
日本で初めてこの言葉が紹介されたのは1991年のことです。2002年には母子健康手帳に揺さぶりの危険性が明記され、厚生労働省は虐待問題に詳しい小児科医や内科医に監修を依頼して、『子ども虐待対応・医学診断ガイド』を作成します。
そして、SBSの診断基準については、
『3メートル以上の高所からの落下事故や交通事故などの客観的な証拠がない限り、3つの症状がみられる場合は、虐待の可能性が高い』
という内容の情報を伝え、広めていきました。
同時に、捜査機関は、硬膜下血腫、眼底出血(網膜出血)、脳浮腫という3つの症状が赤ちゃんに見つかった場合、保護者らを揺さぶり虐待の加害者として、逮捕・起訴するようになったのです。
一方、刑事訴追が増え始めたこの頃から、『3徴候がみられたからといって、必ずしも揺さぶりによる虐待とはいえない!』という反論意見が、複数の脳神経外科医から出始めたのです。
■なぜ大阪地裁は「無罪」を下したのか?
ではなぜ、今回の裁判員裁判で、楢崎さんは無罪となったのか?
この裁判の争点はどこにあり、裁判員や裁判官はどう判断したのか?
SBS検証プロジェクトの共同代表で、この事件にもかかわってきた秋田真志弁護士に、今回の無罪判決のポイントを伺いました。
――この裁判の争点は主にどのような点だったのでしょうか?
最大の争点は、この赤ちゃんに生じていた「急性硬膜下血腫、およびくも膜下血腫」「左右多発性眼底出血」「脳浮腫」という3徴候から、その原因が本当に父親による「揺さぶり」と言えるかどうか? 落下など、何らかの事故による可能性はなかったのか? という点でした。
――検察側は、「泣きやまないことにいら立って、父親が赤ちゃんの頭部を複数回揺さぶるなどの暴行を加えた」と具体的に公訴事実として記載し、傷害致死罪で起訴していたのですよね
はい。この裁判で検察側の証人となった小児科医師は、「赤ちゃんの硬膜下血腫は、同時多発的に複数の架橋静脈が切れたことによって生じたと考えられる」また、「落下等による打撲によってこれほどのケガを負う可能性は考え難く、揺さぶりによって受傷した可能性が高い」と証言しました。
――「硬膜下出血」は、脳のいちばん外側にある硬膜と、クモ膜の間に血が溜まる状態ですね。架橋静脈とは、脳と硬膜とをつないでいる大切な血管のことだと思いますが、それが同時に何本も引きちぎれた、それほど激しい衝撃が加わったと、検察側の医師はそう主張したということですか?
そのとおりです。しかし、裁判員や裁判官は、その主張を認めなかったのです。
――なぜ、裁判員と裁判官は、検察側の主張を認めなかったのでしょうか?
弁護側で証人に立った脳神経外科医は、こう証言しました。
「赤ちゃんの脳に見られる複数の出血は、左後頭部付近の打撲によっても説明可能である」と。裁判員と裁判官は、その証言を踏まえて、
「(赤ちゃんの)体表に明らかな打撲痕がないことを十分考慮に入れても、揺さぶり以外の、脳に回転力が加わるような何らかの方法で頭部を打撲したことにより、本件のような脳の損傷が生じた可能性を否定することはできない」と結論付けたのです。
――脳神経外科医は、打撲痕が見られないようなレベルの衝撃でも、赤ちゃんの脳に複数の出血が見られることはあると主張されたのですね。
そうです。つまり、裁判員と裁判官は、「低い位置からの落下等の事故でも、3徴候は生じ得る」ということを判決文で指摘したのです。慎重な言い回しではありますが、とにかく3徴候があれば、すべて「揺さぶり=虐待」と決めつけようとするSBS仮説に対し、警鐘を鳴らす画期的な判断と言えるでしょう。
――私が現在取材中のケースでも、つかまり立ちからの転倒事故だと保護者が主張しているにもかかわらず、「3徴候が見られたから揺さぶり虐待に違いない」とされ、逮捕されてしまった方が複数おられます。今回の楢崎さんの無罪判決は、他の裁判にも影響を与えそうですか?
実は、今回の裁判で検察側として証言を行った小児科医は、別の刑事事件でも同様に、「揺さぶりによって同時多発的に複数の架橋静脈が切れた」という証言をしています。しかし、私の知る複数の脳神経外科医は、この説明に対して「脳神経外科医の臨床経験からみてあり得ない」と強く批判しています。今後の裁判にも影響を与えることを期待したいです。
――この判決には、架橋静脈の判断以外にも重要なポイントがあるそうですね
はい、3徴候のひとつとされる「脳浮腫」の原因です。検察側の小児科医師は、陸くんの脳浮腫は、揺さぶりによって広く脳神経が切れてしまった状態だと証言しました。これを「びまん性軸索損傷」と言います。
これまでのSBS事件の有罪判決では、この小児科医師の説明をそのまま受け入れるものもありました。しかし、実は、揺さぶりによって、「びまん性軸索損傷」が起こるという考え方には、すでに強い疑問が示されていたのです。
今回の判決は、それを認めなかったということでも大きな意味があると言えるでしょう。
■無罪を勝ち取っても戻らない…、信用と子どもとの時間
事故か、虐待か……。
赤ちゃんが実際に大けがをしたり、亡くなっている場合は、まず虐待を疑わざるを得ないという医療機関や捜査機関の熱意や事情も理解できます。
しかし、3つの症状だけをもって、「揺さぶりによる虐待だ」という疑いをかけることは、極めて危険な判断だと言えるでしょう。
つかまり立ちからの転倒や落下事故、あるいは病気の可能性があると主張しているにもかかわらず、「乳幼児揺さぶられ症候群」を疑われ、強制的に子どもと引き離されている親たちは今、日本にどれくらい存在するのでしょうか。
実際に、私のもとには彼らからの切実なSOSが相次いでいます。
長い期間子どもと引き離された上、逮捕、起訴され、刑事裁判にかけられているある母親は、今回の無罪判決を知り、こう訴えます。
「たとえ無罪が確定しても、一度被告人とされてしまった方が失ったものは、二度と元に戻ることはないでしょう。警察や検察は、証拠もないのに犯人と決めつけて聞き込みに回った友人や職場、親戚など、全ての人たちに、訂正と謝罪をすべきです。何より、長期にわたって大切な時期に分離された子供との時間は、もう取り戻せません。取り返しがつかないのです……」
捜査機関は初期の段階から、脳の専門家である医師の意見にも耳を傾け、慎重に判断を行ってほしいと思います。