メルボルンCに挑む1人の男と、一緒に夢を追った妹とのお話
妹を襲った悲劇
1977年7月20日、奈良県生まれの中垣功。幼少時は4歳下の妹と大の仲良し。彼女が弾くピアノに合わせて歌うのが好きだった。
「競馬を知ったのは兄の影響でした。イナリワンやスーパークリークが活躍している頃でした」
90年12月22日、1人の厩務員を取り上げたテレビ番組を見た。翌日、その厩務員の担当馬が大レースを制した。
「“奇跡の復活劇”と言われたオグリキャップ、ラストランの有馬記念でした」
その瞬間「自分も厩務員になりたい!!」と思った。
それからはピアニストを目指す妹と、互いの夢を語り合った。
高校を卒業すると滋賀県にある牧場で働いた。妹もまた音楽系の学校に入学。彼女の頑張る姿を見て「負けられない」と思った。道は違えど自分の夢の実現のため、妹の姿勢が良い刺激になった。
3年ほど働いたある日、実家から電話が入った。
「母親からの電話でしたけど、泣いていて何が言いたいのか要領を得ませんでした。途中で話し手が兄に代わって、妹が悪性リンパ腫で入院した事が分かりました」
すぐに帰郷してお見舞いに行った。そこで、医者から思わぬ宣告をされた。
「『1年もてば良い方』と言われました」
この時、妹はまだ16歳。愕然とした。
「こんなに頑張っている妹が何故?と思いました」
それからは毎週日曜日、帰郷しては病室を訪ねた。
「すると、兄がドナーになれる事が判明しました」
骨髄移植は成功。4カ月もすると、退院出来るまでに回復した。
「一安心しました。小さい頃から仲が良くて、ピアノを頑張っている姿を見て応援していたので、このまま回復してそういった関係の仕事に就いてほしいと思いました」
念願の厩務員に
中垣自身の話に戻そう。
牧場時代に担当したアグネスデジタルが香港でGⅠを勝利(2001年香港カップ)するのをテレビ越しに見ると、海外へ行けるような厩務員になりたい気持ちが強くなった。05年に競馬学校に入学すると、待機期間を経て美浦トレセンで夢にまで見た厩務員になった。09年、現在の高木登厩舎に移ると、16年の秋、大役を任された。
「サウンドトゥルーが担当として回ってきました」
東京大賞典(JpnⅠ)勝ちのある馬だった。前任者が定年。新たな担当者も体調を崩した事で、代打の代打で指名された。このチャンスを活かした。チャンピオンズC(GⅠ)を勝つと、JRA賞最優秀ダート馬に選定された。
「チャンピオンズCの2日前に祖母が他界していたので、墓前に良い報告が出来ました」
それから6年後の22年。再び厩舎から東京大賞典を勝つ馬が生まれた。ウシュバテソーロだ。同馬は翌23年、ドバイへ遠征すると、なんとドバイワールドカップ(GⅠ)をも優勝してみせた。身近な同僚が海外で活躍する様を目の当たりにして「海外で担当馬を曳けるような厩務員になりたい」という昔からの夢が更に大きくなった。
夢をかなえ海外で馬を曳く
そんな今春、阪神大賞典(GⅡ)を2着して天皇賞・春(GⅠ)に挑むワープスピードの担当者が怪我をしたため、盾取りを前にして代打で同馬を担当する事になった。
「サウンドトゥルーと同じ山田弘オーナーの馬で、元々デビュー時に自分が担当していた事もあり、また声がかかりました。以前に担当していた頃にはなかった馬っ気の強さが顕著になり、他馬が近寄ってくると牡牝関係なく馬っ気を出して乗り手を振り落とそうとするので、苦労しました」
それでも無事、格式高い伝統のGⅠに送り出すと、5着に好走。代打としての責任は果たせたかと思えた。
「これで元の担当者に返せると思ったのですが、彼の怪我の回復が考えていた以上に長引き、秋も自分が任される事になりました」
その秋のレースはコーフィールドC(GⅠ)とメルボルンC(GⅠ)。海の向こう、オーストラリアが舞台だった。
「プライベートでも海外へ行った事がなかったので、不安がつのりました」
だから「こんな自分で良いのか?」と自問自答した。しかし、結論は出ていた。
「海外遠征は夢の1つでした。夢をかなえたくてもかなえられない人もいる中、このチャンスから逃げてはいけないと思い、行かせていただく事にしました」
ホースマン人生の視野を広げたいという思いもあって、人生で初めてパスポートを取得。東京競馬場の検疫厩舎に入り、1週間の検疫の後、香港を経由してオーストラリアへ入った。
「繊細な馬なので、東京競馬場ではナーバスになって飼い食いが落ちました」
美浦の厩舎では常に有線放送を流している事を考え『少しでも同じ環境にしよう』と購入したラジカセで音楽を聞かせた。そんな成果もあったか、出国前には体重を戻せた。経由地の香港では飛行機から1度降ろされ、約5時間待機。
「何をされているのか分からず相当のストレスだったと思うのですが、必死に耐える姿を見て、涙が溢れそうになりました」
無事にオーストラリアに到着。検疫厩舎を兼ねたウェルビー競馬場に着いた時には「本当にホッとした」と言い、続けた。
「ほとんど関東圏で走って、そもそも長距離輸送をした事のない馬なのにいきなりオーストラリアまで来て、けなげに耐えてくれました。現地入り後も度重なる検査があり、それも心労になったはずなのにジッと我慢してくれました」
19日にはコーフィールドCに出走。「海外のパドックで馬を曳く」という長年の夢をかなえてくれたワープスピードを見て、何とか結果を出してほしいと願った。
しかし、残念ながら思いは届かず、18頭立ての13着に沈んだ。
「ゴール板近くのコース脇で応援しました。1周目は最後方で目の前を通過したので、上がって行ってほしいと願ったけど、道悪で前残りになったせいもあったか、なかなか進出出来ないまま終わってしまいました」
それでもレース後は「すぐに息が入るくらい元気」で、2日後のCT検査も難無くクリア。予定通り次はメルボルンC(フレミントン競馬場、芝3200メートル)へ向かえる目処が立ったという。
妹の後押し
時計の針を1998年まで戻そう。
骨髄移植をして退院出来るまでに回復した妹だが、再び病状が悪化。再入院を余儀なくされた。
「自分の前では気丈に振舞っていたけど、母に対しては弱音を吐く事もあったようです」
9月15日の事だった。牧場で働いていた中垣に「意識が朦朧としているからすぐに帰って」と連絡が入った。
取るモノも取りあえず、病院へ直行した。すると、到着を待つように、意識が戻った。
「言葉が出て来ないようなので『どうした?』と声をかけたら、ペンを持ち、弱々しい字で『声が出ない』と書きました」
そんな妹に「大丈夫だよ。絶対、大丈夫。そのうちまた喋れるようになるから」と伝えた。
しかし、間もなくして再び失われた意識は、2度と戻る事がなかった。中垣の願いはかなわず、若い命は、僅か17年で幕を閉じた。
「今でも『何で妹が……』という気持ちに襲われる事があります。代われるなら代わってあげたかったです」
ピアニストになりたいという彼女の夢はかなえられないモノとなってしまった。しかし、中垣は厩務員になる事や海外へ遠征するといった夢をかなえた。
「妹が後押ししてくれているのだと信じています」
それから26年が過ぎた。「今でも大好き」という妹の命日を、今年は、今回の遠征中に迎えた。大切に取ってあるという「声が出ない」と記された紙をお守り代わりに、中垣はワープスピードと共に、メルボルンCに挑む。同レースは毎年11月、第1火曜日の午後3時(日本時間同1時)が発走時刻。妹さんも、空の上でその時間が来るのを楽しみに待っている事だろう。
(文中敬称略、写真提供=平松さとし)
*なお、中垣持ち乗り厩務員の以前記した記事はこちらです。あわせてご高覧ください。