戦国時代に活躍した有能な名軍師5選!!
一般的に軍師とは戦略や戦術などを進言する参謀的なイメージがあります。このような軍師は戦国時代の中期に登場し、それまでは出陣の際は吉凶を占い、日時や方角などをアドバイスしたり、なにか縁起が良くないことがおこれば、厄払いをしたりと戦術ではなく占術が行われていました。
このような役割を持った人を軍配者や軍配師と呼ばれています。
戦の大規模化によって兵の動員数が多くなると、それだけでは戦に勝てないことから現実的に戦略・戦術を提言する者が現れました。こうして、私たちがよく知っている参謀的な軍師が登場します。
そこで戦国時代に活躍した軍師と呼ばれる武将を何人か紹介します。
軍配者から参謀型の軍師へ
戦略や戦術を立案する参謀型の軍師のパイオニアが武田信玄に仕えた山本勘助と言われています。勘助は川中島の戦いで作戦に関わり、彼の立案した『キツツキ戦法』は戦国ファンの知るところでもあります。
今川義元に仕えた太原雪斎は戦だけではなく外交面でも活躍し、甲相駿三国同盟の締結に尽力しました。このように彼らは戦だけではなく内政や外交まで幅広く活躍しており、ある意味では君主の補佐役としての役割もありました。
有能だった戦国時代の軍師5選!!
軍師について簡単に説明したところで、戦国時代に活躍した武将たちを紹介してみたいと思います。選んだ基準は筆者の好みなのでご了承ください。
直江兼続 1560~1620
カリスマ君主・上杉謙信の亡き後、跡目争いで揺れていた上杉家を一つにまとめ上げ、景勝の補佐をしたのが直江兼続でした。武田家や織田家・豊臣家を見れば、カリスマ亡き後を受け継ぐことがどれほど大変なのかは想像できます。
上杉家を良く支え、豊臣政権時代には新田開発や産業育成、商業発展などの内政面に力を入れました。しかし、関ヶ原で西軍に付いたことから会津120万石から米沢30万石に減封されてしまいます。それでも家臣達を減らすことなく領内の開発を進め、50万石まで領地を広げました。
幕末まで上杉家を継承させることが出来たのは、直江兼続のおかげと言えます。
片倉景綱 1557~1615
伊達政宗に仕え、大事な合戦において参謀的な立場で軍師として策略や調略を行い、何度も伊達家の危機を救いました。豊臣秀吉の小田原攻めの際に参陣を迷っていた政宗を『秀吉の天下はもはや動かしがたい。ここで従わなければ伊達家の命運もここまででしょう。』と説得し、伊達家を存続させました。
徳川家康にも一目置かれて一国一城令が敷かれた際でも、政宗とは別に白石城18000石を与えられています。
小早川隆景 1533~1597
毛利元就の3男として誕生し、小早川家に養子に入り家を継ぎます。
元就亡き後に毛利家を全面的に支え活躍し、宿敵の尼子氏や九州の大友氏との戦いを制しただけでなく村上水軍も傘下に収めました。その後、織田信長や豊臣秀吉との対立も直接戦火を交えること無く切り抜け家を存続させています。
秀吉に重用され伊予の国を与えると言われましたが丁重にお断りをし、領地を本家に与えてほしいと嘆願した逸話も残っています。
竹中半兵衛 1544~1579
太閤記などの史料では『その容貌夫人の如し』と書かれています。その風貌からは想像できないほどの豪傑で剣術は免許皆伝の腕前だったとか。斎藤家に仕えていた頃は龍興に対して戒めのために数十名で稲葉山城を乗っ取り、龍興に返還した逸話は有名です。秀吉に竹中半兵衛と一緒であれば、どんなことでも成し遂げられると言わしめました。
黒田官兵衛 1546~1604
豊臣秀吉の天下統一に大きく貢献したのはこの人でしょう。
中国地方の毛利攻めの途中で信長の死を知り落胆した秀吉に『運が開けましたな』と言った逸話はあまりにも有名です。そして、明智光秀との山崎の戦いを勝利に導き、秀吉は信長のかたきを打つことが出来ました。
その後の賤ヶ岳の戦いや九州討伐にも大きく貢献。小田原討伐では北条氏政との交渉役になり小田原城の無血開城を実現しています。
このように秀吉の天下取りに一番貢献したのにもかかわらず、豊前国17万石しか与えられなかったのは、彼の力量があまりにも大きすぎて秀吉に警戒されてしまったと考えられています。
戦国時代の軍師を紹介していきましたがどうでしょうか?
こうした参謀型軍師は天下統一がされて平和な世の中になっていくと姿を消し、官僚型の腹心へと姿を変えていきます。天下泰平の世では、軍務より政務が中心になってくるので当然ですが、戦国時代の軍師の活躍は世の中に争いが絶えないからこその職業でした。