ヒーローが現れるのを待つな――スーパー校長ばかりに期待してはいけない
■1人が歴史を動かしたのか?
NHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」も後半戦が始まった。いよいよ13人の有力御家人による合議制がスタートしたと思ったら、早々に権力争い、バトルロワイアルが始まっている。
今回の作品は、これまでの大河ドラマと、いい意味でちがっているように思う。ドラマや映画、歴史小説はフィクションの要素も多々あり、エンターテインメントなので、史実や理屈をどうこう述べるのは野暮かもしれないが。
これまでの大河ドラマや映画などの多くでは、主人公を中心に、さも特定のヒーローが歴史をぐいぐい動かしていったというテイストで描かれることが多かった。織田信長の描き方などその典型である。いわゆる「英雄史観」が強い。なお、ノンフィクションに見える伝記物なども同様の傾向がある。
だが、おそらく史実としては、1人の人物の思い通りにものごとが進むことなんて、ほとんどない。「天才」と呼ばれるような人であっても、1人の能力では限界があるし、欠点もあるし、周囲の人や環境に振り回されることもあるし、想定外のこともバンバン起こる。
今回脚本を手掛ける三谷幸喜さんの魅力のひとつは、歴史上の大人物も、些細なことで思い悩んだり、大きなミスや失敗をしたり、愚痴っぽかったりするところだ。ドラマでは武家の棟梁、源頼朝がまさにそう描かれていた。主人公の北条義時も、毎回、右往左往している。つまり、あまりヒーローを持ち上げ過ぎないところが、わたしはいいなと思っている。
■学校教育や教育政策で強い、個人主義
学校教育をめぐる世の中の論調、あるいは教職員や保護者等の見方のなかにも、ヒーローを過大評価しているのではないか、と思うときがある。たとえば、ある校長が果敢に学校改革を行って、メディアや教育雑誌等で頻繁に取り上げられることが、ここ10年、20年を見ても、繰り返し起きている。
確かに、そのリーダーの先見性や行動力には素晴らしいものがあるし、学べることは多い。実際、多くの教育関係者の実感としても、校長次第で学校はずいぶん変わるということは、多々あると思う。
だが、一方で、メディア等から伝わってくる情報が偏っている可能性もある。その校長だって、欠点や苦手なこともあるだろうし、校長ひとりだけの力で進んだことばかりではないはずだ。学校改革等のなかには、マイナス面や副作用が大きなものもあるかもしれない。
こんにちの学校運営は、鎌倉時代に引けを取らないくらい、混沌としている。一人の校長があらゆることに見通しを立てることができるような状況ではない。児童生徒や家庭環境などは、以前に増して複雑になっている。「個別最適な学び」などと言われるが、具体的にどんな学びを進めていくのか、正解がある世界でもない。加えて、新型コロナへの対応では、苦悩が続いている。
専門家と呼ばれる人たちであっても、目先のことだって、わからないことは多いし、想定外のことも起きている。VUCAの時代と呼ばれるまっただ中に、私たちはいる。
であるなら、一人の力や知恵に頼りすぎるのではなく、また、一人のヒーローの登場を待ち焦がれるのではなく、さまざまな人の見方や知恵を出し合っていくことのほうが大切だ。マシュー・サイド(2021)『多様性の科学』(ディスカヴァー・トゥエンティワン)などがとても参考になる。
■自己責任論の危うさ
逆に、うまくいかないことや失敗についても、学校教育や教育行政では、ともすれば、個人のせい、本人のせいにする側面が強いように思う。学校にかぎらず、いまの日本社会全般に言えることかもしれないが。
校長についての話とは別となるが、たとえば、ある生徒が宿題をサボりがちでテストの成績もあまりよくないとしよう。中学校等の先生のなかには、「本人の意欲が低い」、「もっと親もしっかりしてほしい」と言う人もいる。だが、よく観察すると、家庭環境が急変して、家ではじっくり勉強できる環境にないのかもしれない。あるいはその先生の授業に問題があって、生徒の関心等を高められていないのかもしれない。
別の例を出すと、文科省が毎年取っている調査で、不登校の要因として圧倒的に多くあがっているのは、本人が無気力という回答だ。いじめや友達関係、教員との関係での問題をあげる比率は低い(次のグラフ、小さくて申し訳ないが)。この調査では、学校側が不登校一件一件について、主たる要因と思われるもの一つだけを答えていることには注意が必要だ。
だが、不登校になった本人に調査した別の文科省調査によれば、友達関係や教員との関係、授業の問題という理由が多くあがる(次のグラフ、「不登校児童生徒の実態把握に関する調査報告書」、これは例年実施しているものではない)。複数回答可であるなど、調査設計のちがいも影響している話ではあるし、本人は本人のせいとは言いたくないということも影響しているだろう。
だが、学校側と文科省、教育委員会側の認識として、不登校の背景、要因を本人のせいにしてきた傾向が強すぎた可能性は示唆される。(私は毎年の調査のほうで無気力といった項目はなくすべきだと思うし、複数回答可にしたほうがよいとも思っている。)
心理学では「根本的な帰属の誤り」という概念があるそうだ。個人の行動を説明するにあたって、気質や個性の側面を重視し過ぎて、状況的な側面を軽視する傾向を指す。
文科省や国の審議会の文章には「教職員の資質・能力」とか「校長のリーダーシップ」といった言葉が頻繁に登場するが、個人の力に頼ろうとし過ぎているように思うし、根本的な帰属の誤りのバイアスには注意したい。
※前回の記事も関連:先生はスーパーマンじゃない。――なぜ、学校はすごく忙しくなったのか?
■学校の働き方改革でも
さて、学校の働き方改革をめぐっても、ともすれば、個人のせいにし過ぎる傾向はないだろうか。
たとえば、ある先生がいつも夜9時過ぎまで残っているとしよう。毎月の在校等時間(残業時間)は過労死ラインを超えている。そんなとき、校長・教頭や同僚、あるいは教育委員会は、「その先生の意識が変わらないといけない」、「もっと業務を効率的に進められるはずだ」といった見立てをすることや、そう声をかけることがままある。本人も「わたしは要領が悪くて、仕事が遅いんです、すみません」と言ったりする。
確かに、その側面もあるかもしれない。だが、本当に問題はそこだけか?
たとえば、その先生は、他の職員よりも重たい校務分掌や部活動を担っており、過度な負担がかかっているのなら、そこは、業務量の調整や平準化を進めない管理職にも責任がある。引継ぎもきちんと行われないまま、あるいは周りの先生に相談することも難しいなか、不慣れな分掌業務に追われているのだとすれば、それは本人の意識で解決できる問題とは言えまい。研究授業の発表があたっていて、忙しいなら、研究授業のあり方や進め方を根本的に考えていく必要がある。
つまり、組織的な問題や周りの環境を変えていかないといけないことも多いのに、個人問題の側面を強く捉える傾向がありはしないか。それは根本的な帰属の誤りに近いと言えよう。
うまくいったときも、うまくいかなかったときも、その要因として個人のせいばかりにしない見方、さまざまな角度から考えてみる「複眼的思考」が大切だ。学校教育では、子どもたちに、そういう思考力や観察力を高めてほしいのだが、その前に、教職員や教育行政の人たち、また私を含めて教育を論じている人たちに、その力が試されている、と思う。
※この記事は、『千葉教育』令和3年度・桜号(673)へ寄稿した文章を大幅に加筆修正して掲載しました。
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