先生はスーパーマンじゃない。――なぜ、学校はすごく忙しくなったのか?
学校の先生がとても忙しいことは、ずいぶん知られるようになった。小中学校の教員が世界で一番長時間労働であることは、OECDの調査でも、わかっている。だが、背景を正確に把握している人は、それほど多いわけではない。
「先生たちは、どうして、こんなにも忙しいのですか?」
「学校は遅れていたとはいえ、IT(ICT)の導入も多少はしているでしょう。昔はプリントづくりや成績処理もほとんど手作業でした。なのに数十年前と比べて明らかに忙しくなっている。なぜ?」
こういう質問を、マスコミの方や教育関係者からよくいただく。複雑な背景、経緯があるので、ひとこと、ふたことでは説明しづらいが、いくつか踏まえておきたいことを、今日はお話ししたい。
※もちろん、学校種や学校ごとに違いはあるが、今回はおおよその共通点について述べる(例:小学校と高校ではずいぶん多忙の要因は別だ)。
■いじめ、貧困への対応、インクルーシブ教育、外国人児童へのケア、個別最適な学びの充実、道徳教育などなど。
最初に、最近出された文科省のある文書の一部を紹介しよう。
いやもう、一文が長すぎでしょ?(最初に引用した文は約350字なので、原稿用紙1枚近く埋まりそう。)
まあ、文章のわかりやすさは横に置いておくとしても、ここから見えてくるのは、これほど学校の先生が扱っているものは多種多様、多岐にわたるということだ。よく「昨今、教育課題は複雑化し・・・」という表現は決まり文句のように出てくるが、複雑を飛び越えて、怪奇なことになっている。
■スーパーマンを前提とした政策、制度は実に危うい。
この文章(指針案)は、公立学校の教員の資質能力をもっと上げていかねばならないということを書いているのだが、こんなにあらゆることに対応OKな、高いスキル、能力をもった、素晴らしすぎる人材は、どれだけいるのだろうか。
日本の先生たちは、それほどスーパーマン、スーパーウーマンばかりなのか?
杉並区立中学校で民間人校長をしていた藤原和博さんは、かつて次のように述べていた。
藤原さんが中学校長をしていたのは20年近く前だが(2003年~08年)、この間、学校、教員への過重期待は、さして変わらないばかりか、むしろエスカレートしている。
先ほど引用した文科省の文書は、昨日までパブリックコメントに出されていた、ごく最近のものだ。文科省と各地の教育委員会は、学校ならびに教員(+教員以外のスタッフ)に求められるものをどんどん増やし、ハードルを上げ続けている。だが、足もとで現実に増えているのは、「そんな高いハードル飛べません」、「無理っ!」と棄権する若者たち(教員採用試験を受けようとしない)と中途退職する教員たちだ。
そりゃ、無理もない、と感じる人は、おそらく私だけではないと思う。
マルチにできる人、スーパーマンを前提とした政策、制度には問題が多い。ここでは3点指摘しておく。
第一に、前述のとおり、脱落する人やエントリーしたくない人が多数出てくる。ノルマが厳しい会社には人が集まりにくいし、離職者も多くなりがちなのと同じだ。
第二に、理想、目標が高すぎるので、現状には問題がたくさんあるように見えやすい。そうすると、「さらに教育改革が必要だ!」と声高に述べる人が出てくる(政治家やマスコミなど)。その教育改革と呼ばれるもので、学校のやるべきことは増えて(特にやった感を出すための書類が増えたりする)、さらに現場は疲弊する。悪循環である。
第三に、本来は、人間だれしも得意、不得意があるものだ。何かしらデコボコしている。だから、強みを発揮しやすい環境、弱みは補い合えるチームをつくっていくことが大切なはず。なのに、上記のような政策では、チームで対処していくことや組織力を高めることについての考慮が、抜け落ちてしまう。
文科省も2015年頃から、「チーム医療」にならって「チーム学校」と唱えてはいるが、多少、カウンセラーやSSW(スクール・ソーシャル・ワーカー)らの予算を付けたくらいで、多くは非常勤の不安定な職である。学校の組織力やチームを高める政策は概して弱く、実際に進められていることの多くは、「教員個々人のレベルアップをどんどん図れ」というかけ声や指針づくりである。
ドラクエなどのRPGでいうと、勇者一人だけでレベル上げをやって、ボスまで行けというようなもの。仲間になりそうなヤツは、別の強敵とやり合っていて、パーティーを組む余裕はない。これでは、孤立して、メンタル不調をきたす人が多いのも無理はない。勇者のように、ある程度多方面に秀でた、強者ばかりではないのだから。
■学校は、沈みゆく船か?
次の図は、私がプレゼンでたまに使うものだが、これまでの話を船でたとえたものだ(たとえ話が多くて恐縮です)。荷物を積み過ぎて、沈みかけている。それが昨今の学校の実情だし、世界一多忙となっている背景のひとつだ。ICTなどで便利になった、効率的になった側面は一部にあるものの、それ以上にやることが増えているのである。
問題は、教育行政(文科省等)だけではない。政治家、国の審議会の有識者、マスコミ(テレビ番組のコメンテーターらを含む)のなかには「教師はこうあるべきだ」「こんな教育課題にしっかり対応しなければならない」と熱心に言う人は、今も昔も多い。
だが、あまりにも多くのことを求めすぎではないか。
保護者のみなさんにも、見つめなおしてほしいことがある(私も中高生の父親のひとりだ)。たとえば、今後中学校の部活動を地域に移行していこうという動きがある。これに対して、保護者やメディアの一部は、家庭の負担が増えるのは困る、できれば先生に続けてもらいたい、と言う。学校部活動では習い事などと違って、レッスン料はかからないし、教員が顧問だと、かなり安心して預けられるから(一部不祥事などの問題は起きているとはいえ)、保護者にとって都合がよい。
だが、教員の献身性、事実上無償労働に甘えていていいのか。休日も試合などで潰れてしまって、疲れが取れないまま月曜を迎える教員は数多くいる。同時に、一部の教員は部活大好きだが、その時間があるなら、授業の質をもっと上げてほしい人もいる。こうしたコストやトレードオフ(何かを得ると、別のものを失うこと)にも、目を向ける必要がある。
■コロナ3年目で、さらに過重積載に。
事態はさらに悪化している。新型コロナの影響で、学校、教員の仕事が一層増えているからだ。
次のグラフは、私が今年の3~4月に教職員向けにアンケートしたもの。およそ6割近くの学校は、事実上、保健所業務の代行をしている。教頭などは休日もお構いなしで、24時間、関係機関と報告、調整を行っていて、疲れ果てているという話を、私は各地で聞く。保健所も多忙すぎるので、学校が協力するべきこともあるのは理解できるが、それにしても、である。
また、GIGAスクール構想のもと、児童生徒ひとりひとりにコンピュータが行きわたりつつあるし、授業等での活用も増えている。それはよいことも多いのだが、セットアップや更新、管理業務が、教員の仕事として純増している(次の図)。
タブレットの液晶が壊れたといった事故、事件は学校では日常茶飯事だが、故障対応(業者との連絡調整など)を教員がやっている学校も少なくない。教育委員会も忙しいとはいえ、あまりにも教員の仕事を増やし続けていて、「ICT活用力が大事だ」などと発破をかけるばかりなのは、いかがなものか。
おまけに、家庭に持ち帰った端末でのトラブル(子どもがこんなサイトを見ていた、友達と揉めている、動画ばかりで困るなど)も、学校に持ち込まれて、教員が介入、支援している例も多い(前掲のグラフの下のほう)。学校の管理外のことなのだから、学校、教員の責任の範囲外のはずだ。家庭で話し合うなどしていくべきことだが、保護者の要望で学校が関わらざるを得なくなっている例も多いようだ(学校側が過剰サービスな姿勢になっている問題もあるとは思うが)。
以上本稿で述べたことは、かなり粗い分析、解説であり、もう少し個々の業務ごとや学習指導要領上の問題なども見ていく必要があるし、法制度上の問題などもあるが、ここで詳述する紙幅はない。
とはいえ、欲張りな学校像、超人的な教師像ばかりでは、危ないし、持続可能ではない、という認識は、もっと広く共有されたほうがよいと思う。
繰り返すが、学校の先生はスーパーマンでも、なんでも屋でもない。どの荷物を積み込むのか(学校の役割なのか、学校の役割だしても教員がやるべきことかなど)、ひとつひとつ丁寧に点検して、一部はおろしたり、荷物を小さくしたり、積み方(やり方)を変えたりする必要がある。教員以外のスタッフも常勤を増やして(≒クルーを増やす)、本当の意味でチームとして協業しやすくしていく必要もある。
沈みそうな船に子どもを乗せたい人はいない。
(参考文献:教員の役割、業務の拡大などについて)
●神林寿幸(2017)『公立小・中学校教員の業務負担』(大学教育出版)
●中澤渉(2021)『学校の役割ってなんだろう』筑摩書房
●妹尾昌俊(2020)『教師崩壊』PHP研究所
●妹尾昌俊・工藤祥子(2022)『先生を、死なせない。教師の過労死を繰り返さないために、今、できること』(教育開発研究所)
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