「どうする家康」に宗誾として再登場した今川氏真と、その末裔
26日の大河ドラマ「どうする家康」に、今川氏真が宗誾(そうぎん)という法名で久しぶりに再登場した。
今川氏は武田信玄と徳川家康に東西から攻められて滅亡しており、氏真がこの時代まで生きていたことに驚いた人も多いかもしれない。「滅亡した」というと、一族すべて滅んで子孫は残っていないようなイメージを持つ人も多いが、実はそういう例は少ない。とくに戦国時代の有力大名の子孫は、江戸時代も旗本や、大藩の家老などとして残っていることが多い。
今川氏滅亡後の氏真
さて、氏真が亡くなったのは、大坂冬の陣の和議が成立した直後の慶長19年(1614)の年末。家康の亡くなる前々年である。数え年で77歳という長寿だった。氏真が掛川城を開城して戦国大名としての地位を失ったのが永禄12年(1569)なので、その後45年間も生きていたことになる。
掛川城を開城した氏真は妻早川殿の実家北条氏を頼ったが、やがて北条氏政と不和になり家康を頼った。その後、京都で豊臣秀吉に仕え、のち出家して宗誾となった。その後再び家康に仕えている。
この間、妻の早川殿とはずっと一緒だったらしく、早川殿が亡くなったのは氏真が亡くなる前年である。
戦国大名の座からは滑り落ちた氏真だが、和歌や蹴鞠に優れ、当時の文化人の一人として戦国時代を乗り切った。
氏真没後の今川家
氏真没後、嫡男範以はすでに亡くなっていたために、今川家は孫の直房が継承した。直房は慶長16年(1611)に2代将軍秀忠に仕えており、子孫は幕府の儀式や典礼をつかさどる高家となって以後世襲した。
幕末、最後の高家となった範叙は慶応4年(1868)若年寄に抜擢されている。
今川家の菩提寺は武蔵国多摩郡上井草村にあった。その場所は今川家に因んで、現在は杉並区今川という地名になっている。今川2丁目にある観泉寺には今川家累代の墓がある。
一方、今川氏真の二男高久も徳川秀忠に仕え、慶長6年(1601)に上野国碓氷郡で1000石を賜って旗本となった。その際、秀忠より「今川は宗家に限るベし。今より品川と称すべし」といわれて、嫡男ではない高久は品川家と改称した。
その後、この家も高家に列し代々続いている。