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笑いの闘将だった林家こん平 馬鹿馬鹿しく泥臭く華があったその高座姿

堀井憲一郎コラムニスト
(写真:アフロ)

すみずみまで笑いを届けようとした林家こん平

林家こん平は、元気を分け与えてくれる落語家だった。

常に人を楽しませようという気配が横溢としていて、テレビで見る雰囲気と、寄席の高座から放つ雰囲気が同じだった。

『笑点』メンバーのなかでも、より遠く、より広く、より多く、笑いを届けようとしていたとおもう。

寄席や落語会でもまた、客席のすみずみまで、楽しませようと奮闘していて、林家三平門下の闘将というにふさわしい人物であった。

彼がもっとも師匠の初代林家三平の気風を受け継いでいたとおもう。

令和2年、77歳で亡くなってしまった。

こん平の師匠 初代林家三平の「戦い続ける姿」

彼の師匠である先代の林家三平は、とにかく客席を沸かすことにすべてをかけた人であった。

落語が上手いか下手かというようなことに頓着せず、いま目の前にいる客の気持ちを動かすために喋っている、そのためだけに生きている、という使命に取り憑かれたような人だった。

熱気がすごかった。

まだ私が子供だった1960年代のころ、テレビで見た初代三平の姿は、「必死で真剣なおもしろい人」だった。いつだって汗だくだった。

初代三平の喋りは、卑下することなく、また高みに立つこともなく、いつも平地から正面でぶつかってくるような笑いで、真剣そのものだった。

昭和の荒々しさと元気さに満ちていた。

爆笑のあとに哀愁さえ感じさせる存在だった。いつも戦っていたという印象がある。

林家一門を率いる闘将こん平

こん平は、初代三平の実質的な総領弟子である。つまり弟子の代表だ。

初代三平の死後、彼の弟子を自分の弟子にして、林家一門を統率していた。

三平の息子が九代目正蔵を襲名するころに体調を悪くし、林家一門の総帥は自然と正蔵へとうつり、彼は一線を退くことになる。

振り返ると、まさに「三平亡きあとの林家一門」を守るために闘ってきた人生だった、とおもう。

林家こん平は、寄席に出てきても、しっとりとした落語を聞かせるわけではなく、必ず「チャンラーン!」と叫び、自分の故郷(新潟の小千谷)の話や、笑点の話をして、かならず客を沸かせていた。

いわば「漫談」なのだが、おそらく何百回も、ひょっとしたら何千回か同じ話をし続けているから、きちんとした型が出来上がり、聞いていて、とても心地よく笑える一席に仕上がっていた。

これはこれで見事な落語であった。

「古くから続く古典的な落語だけが大好き」というちょっと困った好事家を除けば、広く愛された落語家である。

林家こん平の高座は、馬鹿馬鹿しさと泥くささと、テレビに出ている人らしい華のある高座であった。

『笑点』メンバーが持っている圧倒的な才能

『笑点』は落語家が出る番組であるが、でもあくまでテレビのバラエティ番組であり、あそこにレギュラー出演する人たちは、テレビタレントらしい当意即妙さを持っていなければならない。

その才能と、落語そのものを演じる力量とはまた別ものである。

笑点メンバーは、だいたい「目の前の人を笑わせる力」が頭抜けている。

その点では一流のプロである。

「あまり人を笑わせる力のない落語家」、というのは、じつはかなりいる。

そういう人がなんで食っていけるのかといえば、彼らは何度も聞いてるうちに、えもいわれぬ味わいが感じられて、その渋い面白みがたまらなくなるからである。寄席に沈み込んでいるとき、ああ、おれはべつだん、そんなに笑いたいわけじゃなかったんだな、おれは人の話を聞いていたいだけだなあ、という気分になっていって、その感覚が、この上なく楽しいからである。

これは二百年も続く寄席の世界が作り上げたものだろう。たぶん嘉永安政のころの客の気分とさほど違わないとおもう。

そういう世界を知っていると、人生の何かが楽になる気がする。

地方の落語会で重要なこと

テレビは即応性が大事である。最初からおもしろくないとダメだから、あまり「笑点」向きではない落語家がたくさんいる。

逆に言えば、「笑点」メンバーは、寄席なり落語会なりに出ると、必ず受けなければいけない。それが彼らが背負っている使命である。

とくに日常生活まわりに「寄席」(落語を聞ける空間)がない地方では、テレビに出ている彼らの存在は大きいし、その地でたまに演じられる落語会がとても重要になってくる。

そこで中途半端にうまい古典の大作をやって、中途半端に感動してもらうよりは、ただひたすら、バカバカしく笑える高座のほうがいいのだ。

そのことを、彼ら初期の「笑点」メンバーは強く意識して展開していたとおもう。

落語が忘れられそうになった時代

あらためて『笑点』が五十年を越えて続いているありがたさを感じる。

昭和の終わりころから平成にかけて、1980年代から1990年代、落語はあまり世の人から注目されなかった。

おそらく、このころは「明治生まれの人が消えていく時期」であり、古い日本のものを投げ捨てて前に進もうとしている時代だったのだろう。

落語はさすがに投げ捨てられはしないが、エンターテイメント界のうしろのほうへ追いやられてしまった。(講談は、ほぼ、投げ捨てられました)

そんな時期もずっと『笑点』が放送され続けたことによって、落語家という存在は完全に忘れられることもなく、落語家が着物を着て座布団の上でおもしろいことを言う人たちだという国民的な認識は継続されたわけである。(ちょっと座布団を重ねすぎではあるが、まあ、ないよりいいだろう)。

先代圓楽、歌丸、木久扇(長らく木久蔵)、小遊三、楽太郎(当代の圓楽)らと並び、林家こん平は、「日本人にとっての落語家のイメージ」を守るために奮闘努力した人であった。

それはまた初代林家三平が命を削るように賭けた、「目の前の客を笑わせる芸」とつながる精神である。

木久扇とこん平の「底抜けの明るさ」

古くからの「笑点」メンバーのなかでも、とにかく笑いに直結させようと動いていたのは、林家木久扇と林家こん平である。彼らには、うまいとか、鋭いとか、賢いというポイントで誉めてもらおうという欲がなく、ひたすら笑いへ直結しようとしていて、その点、きちんと芸人であった。

底抜けの明るさを林家木久扇と林家こん平が受け持って、そして何とか世界はつながっていったのだ。

(いちおう断っておくと、木久扇とこん平は、同じ「林家」でも、系統が違う)。

林家たい平が受け継いだもの

「笑点」では林家たい平がこん平の後を継いでいる。

ときに師匠譲りの明るい野放図な笑いを起こす。

ただ、たい平にはたい平の魅力があり、もっと複層的である。

彼が『笑点』に出始めたのはすでに「とても面白い落語家」として斯界で認められたあとだったので、テレビ向けの喋りと、また別の落語らしい喋りとを別々に持っている。

師匠こん平を多く受け継ぎながらも、たい平は彼独自の世界を作り出している。

伝承芸能はそういうものである。

誰かが亡くなっても、その芸は受け継がれる。

でもすべて受け継がれるわけではない。

死ぬとなくなる。そして、死んでもなくならないものがある。

世上を凝縮したような世界が展開する。

それをわれわれはただ見続けるしかない。

嗄れた声での「チャンラーン!」

林家こん平が、三平に入門したのは昭和33年春、62年前のことになる。

彼より前に入門した落語家も少なくなってきた。

落語協会にかぎってみれば、金扇、馬風ら10人足らずである。

彼らは、昭和の中ごろから後半、高度成長期と呼ばれたかなり無茶な時代を芸人として生きてきた。あの時代を通ってきた芸人には、ちょっと独特の匂いがある。かなりクセの強い世代だったが、いまとなると、みんながみんな、不思議なパワーを持った人たちだったなとおもいだす。

寄席の高座で林家こん平を最後にみたのは、もう16年も前、2004年のことになる。

こん平の声はかなり嗄れていた。それでもチャンラーンと元気よく叫んでいた。

あの嗄れたチャンラーンが耳を離れない。

コラムニスト

1958年生まれ。京都市出身。1984年早稲田大学卒業後より文筆業に入る。落語、ディズニーランド、テレビ番組などのポップカルチャーから社会現象の分析を行う。著書に、1970年代の世相と現代のつながりを解く『1971年の悪霊』(2019年)、日本のクリスマスの詳細な歴史『愛と狂瀾のメリークリスマス』(2017年)、落語や江戸風俗について『落語の国からのぞいてみれば』(2009年)、『落語論』(2009年)、いろんな疑問を徹底的に調べた『ホリイのずんずん調査 誰も調べなかった100の謎』(2013年)、ディズニーランドカルチャーに関して『恋するディズニー、別れるディズニー』(2017年)など。

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