「公聴会」を審議打ち切りの儀式とする恥ずべき民主主義感覚
フーテン老人世直し録(174)
長月某日
国民の理解が深まらないまま安保法案審議は打ち切りとなる。衆議院もそうだったが、参議院でも「公聴会」が終わったところで「審議は尽くされた」と判断された。「公聴会」はまるで審議終了のための儀式である。これは本来の「公聴会」制度を冒涜する恥ずべき話だとフーテンは思う。
そもそも「公聴会」は日本が米国議会を真似て取り入れた制度である。戦前は英国議会をモデルとする大日本帝国議会の日本は、敗戦によって米国に占領されると米国議会をモデルに国会を作り変えた。英国型の本会議中心主義から米国型の委員会中心主義になり、議員立法を支える仕組みの一つとして「公聴会」制度を取り入れた。
米国は議員立法の国である。従って議員立法を助ける様々な仕組みがある。議会図書館には「議会調査局」というセクションがあり、800名を超す専門の研究者がいて常時分析データを議員に提供する。また議員個人には平均で30人、さらに委員会にも3000人ほどのスタッフが配置され議員の立法作業を助ける。これらはすべて国費で賄われる。
議員はこうして行政府に頼らずに自ら立法できる。法案審議になると委員会で「公聴会」が開かれる。「公聴会」には行政府の高官、軍人、学者、専門家などが呼ばれて意見を求められる。日本と異なり彼らは参考人でなく証人として喚問される。虚偽の証言を行えば「偽証罪」に問われる。つまり議会が頭を下げてご意見を伺うのではなく、法案審議に必要な証人を呼んで証言させるのである。
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