日本の水が「安全」でなくなる日
命を生み育む水。その水を汚染している特定の化学物質が、米国など先進諸国で大きな問題となっている。だがこの問題は日本ではあまり報道されていない。日本の水は果たして安全なのか。実際に飲料水を調べてみた。
人気の無料給水所の水を分析
調べるために向かったのは、東京都昭島市が市内を横断するJR青梅線の各駅前に昨夏に設置した無料給水所。地下70メートルより深い帯水層からくみ上げた深層地下水を利用しているという。巨大な水筒のような形をした給水機の上には、河童をモデルにした市の公式キャラクター「ちかっぱー」が通行人を手招きするかのように手を大きく広げたポーズで腰掛けていた。
ここを選んだ理由は3つ。1つめは、「おいしい深層地下水」として何度もメディアに取り上げられ、地元の人たちを中心に子どもを含む大勢の人が利用していること。2つめは、昭島市のある東京・多摩地区は以前から、国際条約で製造・使用が禁止・制限されている有害な有機フッ素化合物が、地下水から比較的高い濃度で検出されていること。そして最後は、交通の便がよく、しかも公共施設であるため、採取が容易なことだ。
昨年12月に現地を訪れ、給水所が設置されている4つの駅を順番に回って水を採取。有機フッ素化合物の問題に詳しい京都大学の原田浩二准教授に分析を依頼した。
「永遠の化学物質」
検出を試みたのは、PFAS(ピーファス)と呼ばれる有機フッ素化合物の一群。PFASは4500種類とも4700種類とも言われるが、そのうち毒性の実態がかなり明らかになりつつあるPFOS(ピーフォス)とPFOA(ピーフォア)に関しては、POPs条約(残留性有機汚染物質に関するストックホルム条約)で製造や使用の禁止・制限が決まり、日本でもPFOSは2010年、PFOAは昨年、製造・使用などが原則禁止となった。
しかし、PFASは自然環境下では極めて分解しにくく、いったん工場などから廃水と一緒に排出されたり漏出したりすると、流れ込んだ先の河川や湖沼、地下水、土壌を半永久的に汚染し続ける。また、人が飲み水や農作物などを通じて摂取すると、排泄されにくい性質のため、血液中などに蓄積しやすい。「forever chemicals」(永遠の化学物質)と呼ばれるゆえんだ。
米国の毒性物質疾病登録庁(ATSDR)の報告書によると、人の体内における推定半減期は、PFOSが最長27年、PFOAが同10.1年となっている。人体に与える影響としては、がんや肝臓障害、甲状腺疾患、免疫力の低下、胎児の発育阻害などの可能性が報告されている。影響に関しては未解明な部分も多い。
国の基準では「安全」
原田准教授に依頼した分析の結果、すべての駅の給水所から数種類以上のPFASが検出された。PFOSとPFOAを足した濃度は、最高が1リットルあたり6.58ナノグラム(1ナノグラムは10億分の1グラム)、最低が5.15ナノグラムだった。他には、POPs条約で近く規制される可能性の高いPFHxSが1.07~1.93ナノグラム、同じく毒性の強さが懸念されているPFNAが0.57~1.49ナノグラムの範囲で検出されるなどした。
検出値は、少なくともPFOSとPFOAに関しては、国の基準に照らせば「安全」だ。厚生労働省は2020年、PFOSとPFOAのそれぞれの濃度を足した1リットルあたり50ナノグラムを、水道水が達成すべき「暫定目標値」と定めた。昭島市の無料給水所から検出された濃度は暫定目標値の10分に1程度にすぎない。
しかし、50ナノグラム以下なら本当に安全と言えるのか。
実は、「50ナノグラムなら安全」という科学的根拠は薄いとの指摘がある。『消された汚染水 「永遠の化学物質」PFOS・PFOAの死角』(諸永裕司著、平凡社新書)によれば、厚労省の検討会は当初、欧州食品安全機関(EFSA)が設定した厳しい基準の採用を検討したが、各国から疑義が出ていることを理由に採用を見送り、複数の国が採用している米環境保護庁(EPA)の考え方が「妥当だと判断」した。EPAはPFOSとPFASの合算値70ナノグラムを当座の「勧告値」として採用しているが、厚労省はそれをベースに日本人の体型などを考慮して50ナノグラムという目標値を導き出したという。
見直しに動く米国
しかも、厚労省がベースとしたEPAの勧告値自体が今、その安全性の根拠を失おうとしている。米国ではPFASによる環境汚染や健康への影響に対する懸念が深刻な問題となっていることから、EPAは昨年、PFASに関する規制を大幅に強化する方針を打ち出した。水道水の規制についても基本的な考え方をまとめ、現在、科学諮問委員会(SAB)に専門意見を求めているところだ。
EPAは基本的な考え方の中で、従来の70ナノグラムに代わる新たな規制値を設定する際の根拠となる「参照用量」(人体が有害な影響を受けるリスクがないと推測される摂取量)として、PFOSについては1日あたり体重1キログラムあたり0.0000000079ミリグラム、PFOAは同0.0000000015ミリグラムを提案した。これは2016年に勧告値を70ナノグラムに決めた時の根拠とした参照用量0.00002ミリグラムより文字通り桁違いに少ない量だ。
仮にこの新たな参照用量に基づき前回と同様の計算方法で新たな規制値を決めると、測定器を使っても測定できない低い値になってしまうと現地の専門メディアは報じている。このため、新たな規制値は環境保護団体などが求めている1ナノグラムになるのではないかとの観測も出ている。
いずれにせよ、バイデン大統領がPFASの規制強化を前回の大統領選の選挙公約に掲げたことや、マサチューセッツ州などいくつかの州がすでに20ナノグラムという低い規制値を採用していることを踏まえれば、EPAの新たな規制値が現行の70ナノグラムを大幅に下回るのはほぼ間違いないとみられている。そうなると日本の50ナノグラムという安全基準は、その根拠の大半を失うことになる。
「安全」な水が「危険」な水に
水質規制強化に動いているのは欧州連合(EU)も同じだ。すでに新たな規制値を決め、加盟国に指示した。加盟国は、環境や健康への影響が特に大きいとみられる20種類のPFASの合計濃度を1リットルあたり100ナノグラム以下に抑えるか、あるいは、すべてのPFASの合計濃度を同500ナノグラム以下に抑えるか、どちらかの規制案を採用しなければならない。どちらも、2種類で50ナノグラムという日本の目標値と比べて厳しい内容だ。
ちなみに1リットルあたり1ナノグラムという濃度は、例えるなら、競泳用プールに砂1粒を入れた程度の濃度。PFASの毒性がいかに強いかを示している。
仮に欧米で採用される見通しの新たな規制値を昭島市の無料給水所の検出値に当てはめると、それまで「安全」だった水が「危険」な水に変わる可能性も出てくる。昭島市だけではない。東京都が2020年に実施した水質検査では、多摩地区の給水栓84カ所中15カ所(約18%)から、定量下限値(正確に測定できる最小値)である1リットルあたり5ナノグラムを上回る濃度のPFAS(PFOSとPFOAの合算)が検出された。中には暫定目標値の50ナノグラムを超過した給水栓もあった。一方、東京・23区で定量下限値を超えた給水栓は47カ所中2カ所(約4%)だった。
昭島市の無料給水所の水に関し、原田准教授は「暫定目標値の50ナノグラムは下回っているが、都内の多くの地域では5ナノグラム以下なので、利用者はそのことを知った上で利用してもらいたい」と述べている。