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【鎌倉殿の13人】近江源氏・佐々木信綱が美少年の甥を死に追いやった凄惨な訳

濱田浩一郎歴史家・作家

近江源氏・佐々木定綱の嫡男は、佐々木広綱です。広綱は、在京の御家人として鎌倉幕府に仕えていましたが、承久の乱(1221年6月)においては、官軍(後鳥羽上皇方)方に属し、幕府軍と戦うも、敗北(ちなみに、広綱の弟・信綱は幕軍に属していました)。同年7月2日、捕縛されていた広綱は、斬首となりました。

その広綱の息子に、勢多伽丸(せいたかまる)という「小童」(子供)がおりました。勢多伽丸は、仁和寺(京都にある真言宗寺院)におり、同寺の門跡・道助入道親王(父は後鳥羽院)に可愛がられていたようです。勢多伽丸は、親王の「御寵童」(鎌倉時代後期の歴史書『吾妻鏡』)とありますので、男色関係にあった可能性もあります。

そんな、勢多伽丸ですが、官軍に加勢し、斬首された広綱の息子ということで、仁和寺から京都・六波羅に連行され、取り調べのようなものを受けます(7月11日)。そこには、北条泰時(北条義時の子)と、北条資時(北条時房の3男)がいたのですが、勢多伽丸の姿を見て、資時が泰時に言いました。

「佐々木広綱は、重罪ですが、この子は、御室(道助入道親王)の門弟となって長く可愛がられているので、不憫です。10歳ほどで、すがる相手もおりませんし、何か、悪行が出来ましょうか。御室に預けておくのが宜しいかと」

また、道助入道親王からも、勢多伽丸の助命嘆願を求める使者が派遣されました。泰時はその使者にあい、親王の命令を奉じて、勢多伽丸を何とか助けようとします(勢多伽丸の母も、子の身を案じて、慌てて、六波羅に駆けつけました)。泰時は、勢多伽丸の容貌の麗しいことや、その母の気持ちを想い、哀れに感じたようです。

結果、勢多伽丸は、御室に帰されますが、その叔父・佐々木信綱が強硬に、勢多伽丸の処分・引き渡しを要求したため、勢多伽丸は、信綱の手に渡ってしまいます。そして、哀れにも、斬首されてしまうのです。

信綱は、なぜ、勢多伽丸の助命に反対し、最終的には斬首してしまったのか。信綱は、甥の勢多伽丸を殺すことで、佐々木家惣領の地位を奪取しようとしたと見ることもできるでしょう。承久の乱後、佐々木家の本貫地の地頭職は、信綱に与えられています。

歴史家・作家

1983年生まれ、兵庫県相生市出身。皇學館大学文学部卒業、皇學館大学大学院文学研究科博士後期課程単位取得満期退学。兵庫県立大学内播磨学研究所研究員、姫路日ノ本短期大学講師、姫路獨協大学講師を歴任。『播磨赤松一族』(KADOKAWA)、『北条義時』『仇討ちはいかに禁止されたか?』(星海社)、『家康クライシスー天下人の危機回避術ー』(ワニブックス)ほか著書多数

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