「どうする家康」、於大の方の夫久松長家の名字の由来は先祖の名前
18日の大河ドラマ「どうする家康」で、久しぶりに登場したリリー・フランキー演じる久松長家。この頃には徳川家康の名前を憚って名前を「俊勝」と変えており、一般的には久松俊勝として知られている。
水野信元の事件を機に長家は隠居したが、久松氏は以後も家康の親族として活躍する。
久松氏と家康の関係
家康の実母於大の方は、尾張の有力国衆水野家から、当時今川方であった松平広忠に嫁いでいた。しかし、実家の水野氏が織田方についたことから、夫広忠に離縁されて実家に戻り、その後尾張阿久比(あぐい)城主の久松長家と再婚した。
従って、この事件で刺殺された水野信元は、長家にとって義兄にあたる。ドラマではおしの強い於大の方の尻に敷かれている武士として描かれており、事件を契機に隠居する。
この久松氏の名字の由来は変わっており、「久松」とは先祖の名前とされている。
久松氏の名字の由来
久松氏はもともとは尾張国知多郡の国衆で、菅原姓を称している。
中世の開発領主の末裔で、室町時代に尾張守護斯波氏の家臣となり、応永20年(1413)に英比郷(現在の愛知県知多郡阿久比町)を与えられて久松氏を称したのが祖とみられる。
この「久松」という名字は地名ではない。では何か、というと平安時代に菅原道真が大宰府に左遷された際、道真の孫の雅規(幼名久松丸)は尾張国知多郡英比郷に流されて、久松殿と呼ばれたことに因んでいると伝えている。先祖の名前を一族の名字として名乗っているのだ。
珍しいことだが他に例がないわけではなく、能登の名家として知られる豪農の時国家は、その地に住みついた初代の平時国の名前「時国」を名字として受け継いでいる。
名前は一代で変わるが、名字にすれば子孫まで受け継いでいくことができるからだろう。
その後の久松氏
その後一色氏と結んで満貞の二男詮定を養子に迎え、阿久比城(坂部城とも)を築城し、これに拠っていた。
戦国時代、長家は徳川家康の実母於大の方を後妻に迎えた。従って家康にとって長家は義理の父にあたり、のちに家康が独立すると長家は息子とともに家康の家臣となった。
桶狭間合戦後は三河上ノ郷城(蒲郡市)に転じ、長家の子の康元・勝俊・定勝は家康の異父弟にあたることから松平氏一族として遇され、以後久松松平氏を名乗った。
江戸時代、子孫は伊予松山藩主、伊勢桑名藩主など、いくつかの大名家に分かれた。江戸中期に寛政の改革を行った白河藩主松平定信は、定勝の三男定綱の子孫にあたる(ただし、定信本人は田安家からの養子)。
なお、長家の弟の定重の末裔は久松氏を名乗り続けている。