皇室タブーで封印されたピンク映画監督が法廷で映画会社に告げた「どうか、誇りを。」
東京地裁に集まった荒木監督の友人知人
5月12日、東京地裁615法廷前の廊下には40人近い人たちが集まっていた。
その日、11時から映画監督・荒木太郎さんが原告になっている民事訴訟の第4回口頭弁論が開かれることになっており、それを傍聴するために集まったのだった。
コロナ対策で座席が制限されているため実際に傍聴できるのは20人強。先着順に並んだ人たちの後ろの方の人は法廷に入ることができなかった。傍聴した中には『誰がために憲法はある』などの映画作品で知られる井上淳一監督もいた。
民事訴訟は基本的には双方の書面交換で進められ、法廷自体は短い時間で終わる。終了後、待合室でその日のやりとりの説明が荒木監督や弁護士から行われる。そうした知人らとの交流を含んだ裁判の進行を、荒木さんのパートナーが手描きのマンガにして配ったりしているのだが、その一部のコマを掲載しよう。
5月12日のハイライトは、原告の荒木さんの陳述が行われたことだった。裁判は荒木さんと、脚本家で映画監督の今岡信治(仕事上の名前は「いまおかしんじ」)さんが原告で、対する被告は新潮社と大蔵映画、その子会社であるオーピー映画である。その日、荒木さんがどういう陳述を行ったか紹介する前に、この裁判に至る経緯を説明しよう。
皇室タブーに触れて映画会社に街宣抗議が
事件が起きたのは2018年で、当時、何回かレポートし、拙著『皇室タブー』にも収録した。同年2月16日に公開予定だったピンク映画『ハレンチ君主 いんびな休日』が皇室タブーに触れて上映中止になったというもの。当時の記事は下記だ。
https://news.yahoo.co.jp/byline/shinodahiroyuki/20180909-00096173/
『週刊新潮』が「不敬」と叩いた記事で右翼団体が映倫などへ街宣
映画は、『ローマの休日』にヒントを得たものだが、問題は登場したのが王女ではなく昭和天皇を彷彿とさせる人物だったことだ。関係者は当初、あくまでもフィクションだからという説明で押し切ろうとしていたようだが、公開直前になって、さすがにこれはやばいのではないかという声が内部で出始めたらしい。それまで内部試写は何度か行われていたのだが、改めて作品をチェックする機会が設けられた。危なそうな場面を削除し、再編集というのも検討されたようだが、物理的に難しく、結局、公開は延期された。
その映画について、公開延期になったことを含めて、『週刊新潮』3月8日号が「『昭和天皇』のピンク映画」と題して大々的に取り上げた。製作した側はあくまでも昭和天皇という固有名詞は出さない方針で行くつもりだったのに、同誌はタイトルに昭和天皇とうたい、新聞広告にまで昭和天皇の顔写真を掲載。ピンク映画で昭和天皇を扱う「不敬映画」とやり玉に挙げたのだった。
大蔵映画はこの事態に慌てたようで、同誌発売の2日後に「上映延期ではなく、中止となっております。今後の上映予定はございません」という告知を行った。そして不測の事態に備えて発売後の土日は、劇場そのものを休館にしたのだった。
『週刊新潮』広告も異様な黒塗りに
ちなみに『週刊新潮』が新聞に掲載しようとした広告自体も問題になり、「『昭和天皇』のピンク映画」というタイトルや天皇の写真は掲載できないと、多くの新聞で異様な黒塗りとなった(この記事の冒頭写真)。それも含めて騒動が拡大し、映画を製作した大蔵映画などに右翼団体が街宣抗議を行うという事態に至った。
大蔵映画の目黒駅前の本社、直営館、さらには映倫にまで街宣車による抗議活動が始まった。街宣は何度も繰り返して行われ、何カ月か続いた。また荒木監督への仕事発注はなくなり、過去の作品のDVDまで出荷中止、脚本に一部関わっただけという今岡さんへの仕事発注も取りやめになったという。荒木監督の過去の作品の封印は、監督作品だけでなく出演作品まで及ぶという徹底ぶりだった。
新潮社や大蔵映画を提訴に踏み切る
荒木監督と脚本家の今岡さんを原告とする民事訴訟が提起されたのは2020年9月3日だった。『週刊新潮』に対しては、荒木さんが取材に応じていないのにあたかも応じたかのように書かれていたり、映画自体を「不敬映画」などと表記したこと、さらに大蔵映画側への取材をもとに、事実と異なる報道を行ったことなどが名誉毀損にあたるというものだった。
荒木さんが裁判で期待したのは、封印された映画を公開し、真相を明らかにすることだった。映画が公開中止になる過程で、大蔵映画側は、あたかも映画会社の意向を無視して監督が暴走したかのような説明を行い、監督自身が謝罪しているとまで、同誌の取材に答えていた。その後の荒木さんへの仕打ちを含めて、荒木さんからすれば、全ての責任を現場の監督に押し付け、トカゲのしっぽ切りで窮地を乗り切ろうとしたとしか思えなかったわけだ。
2020年11月11日に開かれた口頭弁論の第1回期日で、荒木さんは意見陳述を行い、どういう理由でこの裁判を提起したかを明らかにした。一部引用しよう。
《「表現の自由」は、本作品の監督を私に委託した大蔵映画(オーピー映画)によって、踏みにじられました。大蔵映画(オーピー映画)は保身のために次のような卑怯な行いをしました。決してやってはいけないことです。》
《週刊新潮の取材に対し、監督には「取材を受けるな」と命じたにもかかわらず、この映画について「監督だけが会社の意向を裏切って独走して製作し、大蔵映画はむしろ被害者」とのスタンスを取ったこと。また、事実は、すべて大藏映画の意向のもとに定められた手順に従って監督が了承して作った作品であったのにもかかわらず、監督を売ったこと。謝罪し、改め、恥じるべきです。》
《「表現の自由」が、映画現場でこれ以上踏みにじられないために、何が必要なのか。現在大蔵(オーピー)映画を撮ることで弱い立場の製作者から新たな被害者をこの業界から出してはいけないということを、改めて訴えたいと思います。》
「どうか、誇りを」と法廷で映画会社に
冒頭の話に戻る。第4回の弁論期日にあたる5月12日、荒木監督は大蔵映画を指弾し、次のように法廷で述べたのだった。
《映画会社が了解したうえで、タブーに肉薄する意欲的なテーマの企画で映画を制作しても、会社内部の、いわば忖度で上映が延期となり、中止にされる。さらにその状況がマスコミに漏れて会社自身が非難にさらされようとすると、会社はそれまでの態度をひるがえして監督を裏切り、事実をねつ造して保身に走ったということが、本件における被告大蔵についての基本的な問題の構図にほかならない。
このように、映画制作に携わる者どうしの基本的な信頼関係を踏みにじることが正当化されるならば、映画制作の現場は萎縮し、魅力的な映画作りができなくなり、ひいては業界を衰弱させてしまうことに繋がる。そのようなことにならないよう、本件での被告大蔵の卑劣な対応については、その責任が厳しく問われなければならない。》
《被告大蔵には、あまたの虚偽を主張することを直ちにやめ、いまからでも真実を述べ、謝罪をすべきことについては謝罪をし、映画を愛する人の心をたいせつにするよう求める。》
そして最後にこう付け加えた。
《映画に夢があれば、この国にも夢を持てる。どうか、誇りを。》
ピンク映画制作にあたっての荒木監督の矜持を示す言葉だ。この裁判を多くの友人知人が見守り支援しているのは、表現することに誇りを持とうという荒木さんの意見に共鳴したからかもしれない。
「奴隷契約」と囁かれる契約書
ピンク映画は歴史的には、アダルトビデオに押され、さらにはその後ネットに押され、映画館でピンク映画を観るという行為自体が珍しいものになっている。そんななかで大蔵映画は連綿とピンク映画を作り上映してきた会社だった。産業としての苦境の中で、何とか新しい感覚や思い切った企画で現状を打ち破ろうという空気も現場にはあって、荒木監督の企画もそのひとつと言えた。
大蔵映画は、この事件を機に、監督などと新たに契約を結ぶ際に、会社が責任を問われることのないように様々な条件を課すようになっているという。
映画会社を甲、監督などを乙とした基本契約書では、第2条で「社会通念上不適切と甲が判断した企画に関しては個別契約の締結に応じない」とされ、「皇族を取り扱うこと」を含め、たくさんのケースが列挙されている。
「大蔵側の判断で不適切とされた場合は、契約を途中で打ち切ったり、映画完成に至っても買い取らないこともあるということです。しかも別の条項で改編権、即ち大蔵が完成作品を勝手に再編集できるとも書かれている。監督の著作人格権を認めていないのですね」
と言うのは映画関係者。これを「奴隷契約」と言う向きもあるという。
この事件と裁判は、映画産業をめぐるいろいろな問題を浮き彫りにしていると言えるかもしれない。