後編2019年のEUを振り返る:退任したユンケル氏の功績。貿易推進と労働者に優しい政治をセットで行う
2019年のEUと欧州を振り返る−2020年への道
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後編:退任したユンケル委員長の功績。貿易政策推進と、労働者に優しい社会政策をセットで行う
<後編:ユンケル委員長の退任。貿易政策推進と「労働者に優しい社会政策」をセットで行うという大きな貢献>
2019年、欧州連合(EU)のジャン=クロード・ユンケル欧州委員会委員長の仕事が終わった。
本来なら10月31日で終るはずだったが、加盟国から1人ずつ選ぶ欧州委員(大臣に相当)のうち、フランスなどの3候補が欧州議会の審査で拒否され、差し替えが必要となり、日程がずれ込んだ。ブレグジット交渉の影響もあったかもしれない。
10月には「これが最後の・・・」「ありがとう!」でEU関連のツイッターが飛び交っていたのだが、また同じように11月にも飛び交うことになったのは、なんだか微笑を誘った。
彼の2014年から2019年の任期5年間を、たった短時間で総括するというのは難しい。
筆者は彼の功績を、二つだけここで挙げたいと思う。それは国際貿易の推進と、労働者の権利の保護である。
国際貿易を推進すれば、自由競争が進み、貧富の差が進んでしまう。ダンピングが起き(売るために不当に安い値段で売ること)、労働者に圧迫がかかる。安い労働力を求めて、工場の移転が進んでしまう。このように、労働者の保護がおそろかになってしまう。だから彼は「貿易の推進と、労働者の保護」をセットに進める政策を行ったのだ。
まずは貿易の点から説明していく。
1.日本とEUの経済連携協定(EPA)と戦略的パートナーシップ協定を結ぶなど、貿易を推進した
他国と貿易協定を結ぶ権限は、もう明確に加盟国にはない。EUにあるのだ(もちろん、加盟国の首脳や大臣の合意のもとに行われる)。
ユンケル委員長は、主要加盟国の首脳よりも大きな力をもちうる委員長という、初めての存在になったと思う。
参考記事:アメリカとEU、トランプ大統領とユンケル委員長の会談で、一番驚いたこと
そのようなEUの大変化の時代に結ばれた、象徴的な貿易協定の成功例が日本との協定だったと思う。
(カナダとの協定も大きかったが、あれはむしろ今後改善すべき欠点を見せてくれた、パイオニア的な協定だったと位置づけたい)。
さらに、6月末には、EUとメルコスール(南米の関税同盟。アルゼンチン、ブラジル、パラグアイ、ウルグアイ)の間で、自由貿易協定(FTA)を結ぶことで政治合意した。
このように、逆風が吹き荒れる時代にあっても、EU主権のもとで貿易交渉は着実に進んだのは、ユンケル時代の大きな功績だと思う。
2.ユンケル氏の社会政策
ユンケル委員会は、労働者の保護にとても熱心だった。社会の公正の実現に大きな貢献を果たした。
日本には伝わりにくいが、右左を問わずユンケル委員長が大変人気があって支持されたのは、このためである。
これは、人権保護に熱心で法律に詳しい、右腕の主席副委員長ティマーマンス氏との良い二人三脚が実現した結果でもある。
EU内では、主に東欧から西欧にやってくる「出稼ぎ派遣労働者」の問題が深刻になっていた。
まさにブリュッセルで、EU機関の目の前で、EU機関のための建物を建設するのに、西側先進国ならありえないような条件で働くEU内の派遣労働者たち。
ユンケル委員長が選択したのは、労働組合との話し合いを重視すること。話し合いを制度として組み入れる方法だった。
これは、彼の新しい発案ではない。おおもとはジャック・ドロールがつくったものだ。ドロール氏は、1985年から1995年までの10年間、欧州委員会の委員長を務めた人物である。
ユンケル氏は、ドロール氏の遺産を復活させた。彼はこの方面では、欧州統合の偉人であるドロール氏の後継者と言える。
ドロール氏のつくった労使EU対話
ジャック・ドロールは、単一市場を創り上げた人物である。
当時は、サッチャリズムが吹き荒れた時代。「グローバル化推進」「民営化推進」の時代であり、資本家に圧倒的に有利な時代であった。
だからこそドロール委員長(当時)は、欧州の統合を促進して競争力を高め、欧州に国境なき単一市場をつくることにしたのだ。
しかし同時にドロール氏は、社会ダンピングや低コストの国への企業移転が起き、国際資本の巨大な力を前に労働者が犠牲になることを心配した。
ドロール氏が創設したのは「労働者と資本家、EUとの会合を制度化すること」であった(正確には、当時は欧州経済共同体/ECC)。
普通は、何か問題が起きたら、労働組合などを中心にデモが行われたり、ストライキが行われたりする。今起こっているフランスの年金改革反対ストライキもそうである。世界中そういうものだ。
しかしドロール委員長は、制度的に、EU・雇用側・労働者側という3者が定期的に話をして、EUの政策を進めていかなければならないと考えたのだ。政策を決める段階で、労働者の声を聞くべきとしたのだ。これが「社会対話」というEU独自のシステムである。
ドロール氏は「北欧のモデルは真の社会民主主義で、私のモデルだ」「団体交渉は、我々の経済の礎石でなければならない」と主張していた。
「資本家」とは具体的には、「欧州経団連」と呼ぶべきUNICE(現ビジネスヨーロッパ)や、「欧州商工会議所」と言える欧州団体、公共サービスを提供する会社や雇用者の集まりである欧州団体CEEPなどがある。
「労働者」とは、労働組合のことだ。
当時すでに「欧州労働組合」は存在した。これは戦前からの労働者の団結の流れの上につくられた組織である(主に「第2インターナショナル」、別名「社会主義インターナショナル」の流れをくんでいる)。
しかし極めて弱っていた。マーシャル・プラン以来アメリカの強力な影響と圧力を受け、組織分裂、組織改編などで弱体化を余儀なくされていたのだった。
ドロール委員長は、欧州労働組合をテコ入れした。彼は就任が決まった時、就任前に欧州の首都のツアーを行った。この段階で既に、最も重要な各国労組の指導者に会っていたのだ。彼はもともと労働者の権利の問題に詳しい経歴をもっていた。
政治家が労組の強化をはかろうとするとは、驚きである。
なぜドロールは、このような考えをもつに至ったのだろうか。
彼の発言を引用しよう。
「カトリック教徒には、歴史的に社会を左に向けてきた人たちがいた。このような活動家は、若者のための運動なら、私が14歳のときに入った『若きキリスト教工員』、大人のための運動なら『カトリック工員の行動』などに従事してきた」。
「活動家は全員、信仰と政治を分けていた。『新しき人生』運動は人格主義の流れだが、この運動において私達は二つを区別していた。そのためにたくさんのキリスト教徒活動家は、信徒ではない活動家と一緒に働くことが可能になったのだ」。
この発言によって、いかにキリスト教徒(やその伝統)と左派思想の人達がタッグを組んで、EUをつくってきたかを、うかがい知ることができる。
さらに、ドロール委員会は、欧州レベルでの労組の研修、研究、および会議に対する財政支援を行った。欧州労組とドロールの欧州委員会の間で特権的な通信ネットワークを開設した。このような努力により欧州労組は回復し、より多くの仕事をし、より多くの人を雇い、より知られるようになった。EUが、労働者保護のために、労働組合を支援したのである。
こうして欧州委員会のテコ入れがあってやっと91年10月、欧州労組と、雇用側団体は、欧州共同体レベルでの枠組み合意を交渉することになった。英国を除くすべての加盟国が署名し、92年には「社会対話委員会(SDC)」が設立された。
ドロール委員長は述べている。「私は(社会対話を渋る)雇用側に言いました。『あなた方がこのような態度を続けるのなら、私はゼネストを支持します、革命を支持します。私は彼らと一緒に行動します、彼らと一緒に通りに出ます。なぜならうんざりしていることがあるからです。あなた方は何もしたくない、あまりにも慎重です』と。単一市場を提案したのは私で、最大のビジネスリーダーたちがこのプロジェクトを支持したので、彼らは(私が同時に提案した)社会対話を受けいれたのです」。
ユンケル氏はドロールの後継者
しかし、ドロール委員長の退任後、サンテール、プロディ、バローゾの委員長の時代には、欧州の社会政策は衰退した。欧州労組も停滞した。
息を吹き返したのは、ユンケル委員長の時代だった。ユンケル氏は雇用側・労働者側・EUとの対話を再開したのだった。
2015年、フランス・パリで開かれた欧州労組の大会にユンケル氏が出席したのには驚いた。
当時のオランド仏大統領、イダルゴ・パリ市長、そして欧州議会議長だったマルティン・シュルツ(ドイツ人)が来るのはわかる。彼らは中道左派の社会党・社民党の人達だからだ。でもまさか政党的には中道右派に属するユンケル氏がやって来るとは!!
こうして、2017年11月には「欧州社会権の柱」が採択された。これは3本柱「機会均等と労働市場への平等なアクセス」「公正な労働条件」「社会的な保護と包摂」からなっている。
ユンケル氏こそは、貿易を推進する一方で労働者の保護に熱心という、ドロール氏の後継者であり、再来である。
参考記事(EU Mag):急激に変化しつつある世界に対応する「欧州社会権の柱」
EUをグローバル化の天敵のように言う人は、こういう事実を知らないのだろう。あるいは、世代的にこういうEU歴史教育を受ける機会がなかったのかもしれない(今でもこの内容を取り上げるとは限らないが)。
日本では「元日にコンビニを休みたい」というだけで問題となり、言い出した人が契約打ち切りになるような非道が通っている。あまりにもひどく、欧州と雲泥の差で、情けなくて涙が出てくるほどである。EUの例を見ていると、政治が動かなければ、労働者に優しい良い社会の実現は難しいことがよくわかる。
男女平等の推進
ここで特筆しておきたいのは、「機会均等と労働市場への平等なアクセス」の中には、男女平等が入っていることだ。
ユンケル委員長は、自分の欧州委員会の形成にあたって、欧州委員(大臣に相当)を男女半々にしたかった。しかし、委員は各加盟国から一人選出されるため(つまり委員長を除いて27人いた)、各国の意向が大きく反映する。そのために、実現できなかったのを残念がっていた。
結局、女性は8人となった。主要ポストである上級代表(外務大臣&安全保障大臣のようなもの)には、フェデリカ・モゲリーニ女史を選んだ。
このようなEUの動きは、世界レベルで影響を及ぼすものとなっている。
2006年「国際労働組合総連合」がウイーンで結成されたが、本部はEUの首都であるブリュッセルにあるのは、偶然ではない。この団体には163カ国から331の団体が加盟している。アメリカやロシアの主要労組も、日本の連合も加盟している。EUの政策は、こうして、日本を含む世界に影響を及ぼしているのである。
ルクセンブルク出身という背景
確かに欧州では、右左を問わず、人権意識は一般的に大変強い。それでも、労働組合に肩入れするのは、中道右派の政治家では滅多にいないものだ。
ユンケル委員長は中道右派政党の出身なのに、なぜこうだったのか。
それは出身国のルクセンブルクが小国だからだと思う。EUの外交、EUの防衛は、そのまま自国の外交であり防衛となりやすいからだ。「自分の国をファーストに考える」ことと、「EUをファーストに考える」ことに、矛盾が生じにくいのだ。
ユンケル委員会の時代は、EUが軍事統合に向かうのではないかと思わせるような動きが初めて現れた時代であった。
しかし、ユンケル氏個人は「軍事にまったく興味がない」と評された。加盟国の要請で計画は進んだが、PESCO(常設軍事協力枠組み)が「あくまで災害対策や治安維持の協力」という色彩を失っていないのは、トップであるユンケル氏の意向もあったのかもしれない。
参考記事:EUが軍事・防衛の行動計画で大幅に進展(1)ーー軍事モビリティ計画とPESCOのロードマップ
オールヴォワール、ユンケル委員長
1992年に調印されたマーストリヒト条約の交渉の際、ユンケル氏はルクセンブルク財務大臣として参加した。当時30代の若きユンケル氏は、長じて欧州委員会委員長となり、「欧州統合時代の最後の生き残り政治家」と言われた。
欧州を知り尽くしていると評され、英語、フランス語、ドイツ語を操る人であった。
そしてこの人には、ユーモアのセンスがあった。記者の鋭い質問にはユーモアでかわして、場を和ませる術をもっていた。
EUの舞台では新参で、当初は硬さがとれなく、後には政治的発言をするのを好んで批判も受けたトゥスク大統領とは、良いコンビだった。
彼は社会政策や人柄ゆえに、人々に愛された政治家であった。
ブレグジットや移民問題で大変ヨーロッパが苦しんだ時期に、融和的で、根底に人間愛(ヒューマニティ)をもっている彼が委員長で、欧州は幸運だったと思う。
一時は極右に振れそうになった欧州であるが、スペインでもイタリアでも、左派が政権を奪い返している。欧州が落ち着いた雰囲気を取り戻すのには、ユンケル委員会のEU運営が影響を与えてきただろう。
彼が二期目を希望したのなら、100%間違いなく再選されていたに違いない。もう一期続けて頂きたかった。とても残念である。健康状態の不安のためという報道もあるので、これからは養生して頂きたい。そしてぜひとも、回顧録を出版して頂きたい。
私事であるが、ユンケル委員長とは、パリの弁護士団体が招待した講演会の際に、一度だけ言葉を交わしたことがある(その場で唯一のアジア人で目立っていたのだろう)。良い思い出である。
ジャン=クロードさん、本当にお疲れ様でした。人間に優しい政治をしてくれてありがとう。
2020年から本格始動するフォンデアライエン委員長は、どういう政策を進めていくのだろうか。