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図書館をめぐる問題が噴出。そこで、あえて書く「図書館不要論」。もう図書館などいらない!

山田順作家、ジャーナリスト
(写真:アフロ)

ここのところ、図書館をめぐるさまざまな問題が顕在化している。10月29日には、『本が売れぬのは図書館のせい? 新刊貸し出し「待った」』という記事を朝日新聞が掲載した。また、自治体の図書館の運営で、図書館流通センター(TRC)が、レンタル大手「ツタヤ」を展開するCCCとの協力関係を解消するというニュースもあった。

いずれも、その背景には、デジタル化によって出版というビジネスが変質し、それに伴い本を扱う図書館の存在意義を見直されなければならなくなったことがある。

これらのニュースが流れるたびに、既存メディアやネットではさまざま意見が噴出するが、私にはどれもピンとこない。それは、問題認識がミクロ的すぎて、デジタル化に伴う大きな変化を見逃しているのではないかと思うからだ。

まず、指摘したいのは、そもそもこの時代、そしてこの先の未来において、図書館が必要かどうかという本質的な問題である。

私は、すでに本を「保蔵」し、それを「貸し出す」、あるいは「情報発信基地」「市民の読書・学習の場」としての図書館は、歴史的役割を終えたと思っている。

はっきり書いてしまえば、ハコモノである図書館という施設はもういらない。とくに、地方自治体のどこもが「町立図書館」「市立図書館」などを持つ意味などないと思っている。これは、かりにも記事や本を書き、出版業界で仕事をしている人間として言い出すべきことではないかもしれないが、私の本音である。

なぜそう思うのか?

それは「2045年問題」と呼ばれる、人類にとってこの先もっとも大きな問題が、わずか30年先に迫っているからだ。2045年、人類は「技術的特異点(シンギュラリティ)」に到達すると言われている。

つまり、機械(コンピュータ)の能力が全人類の知能を超えるのがシンギュラリティで、このとき、最初の「A・I」が完成すると言われている。

グーグルのエンジニアであるレイ・カーツワイル氏が提起したところによれば、この先、8年以内に人間に近い検索エンジンが登場する。そうなると、キーワード検索のような単純な検索ではなく、長くて複雑な質問にも検索エンジンは回答し、あらゆる情報のなかから必要な情報を私たちに提示してくるようになる。

さらに、検索エンジンは進化し、2029年までにはついに人間のような能力を持つようになる。そして、その先に知能を持った「A・I」が登場するというのだ。

現在、テクノロジーの進歩はおそろしいスピードで進んでいる。これまで10年かかった情報蓄積は、いまや1日、1時間で成し遂げられている。すでに、情報量ではコンピュータは人間を軽く超えている。

グーグルの検索エンジンに蓄積された情報は、2008年の時点で1兆ページだったというが、それから5年後の2013年の時点では30兆ページに増えたという。この30兆ページのなかから、グーグルはキーワード検索で一瞬にして必要な結果を表示している。

ネットに接続されているなら、ニュース、論文、ブログ、電子書籍にいたるまで、すべて拾ってくる。

現在、世界中の公共図書館、大学図書館などの書物は、どんどんデジタル化されてクラウドに蓄積されてデータベース化されている。

先ごろ、NY連邦高裁がグーグルの書籍電子化を合法と認定した。この訴訟は、出版界注目の訴訟で、米作家協会(AG)と複数の書籍の著者がグーグルの書籍スキャンを著作権の侵害であると訴えていたが、ニューヨーク連邦高裁は10月16日、原告の請求を却下した。グーグルの行為は著作権法に違反せず、公共サービスにあたるものと認定したのである。

こうなると、グーグルの「世界に存在する全書籍のデータベース化」はさらに進むだろう。

では、この先、どうなるか?

おそらく、いまから10年後には、いやもっと早く、世界の公共図書館、大学図書館の書物はすべてデジタル化さる。そして、30年後には、書物といわず、地球上に存在している入手可能な情報は、すべてデジタルデータベース化されているだろう。それどころか、人間活動のあらゆること、たとえば個人の行動の記録、会話の記録なども収録され、全人類データベースは完成しているはずだ。

しかも、コンピュータの能力は飛躍的に高まり、ネットの通信スピード、データ処理能力は、現在の数万倍になる。つまり、これまで私たちが1年かけて調べたり、研究してきたりしてきたことは、1秒で終わってしまう可能性がある。

そのとき、私たちのライフスタイルがどうなっているかは想像がつかないが、少なくとも、街の図書館に行って、本(紙であれ電子であれ)を読む、調べる、借りるということなどしないだろう。

それなのに、なぜかこの日本では、書店数が孟スピードで減っているにもかかわらず、図書館数は増えている。少子高齢化や人口減、地方自治体の財政の逼迫を尻目に、全国の公共図書館(ほぼ公立)は、ここ10年で400館以上増えて3246館に達し、貸出冊数も7億冊にまで増加した。そして図書館は、「住民サービス」と称して、ベストセラーを中心に新刊本をどんどん購入している。

これは、簡単に言えば、図書館が「無料貸本屋」になってしまったということだ。要するに、公的機関が情報を無価値化(タダ)してしまったのである。

また、ツタヤの問題で言えば、公共図書館の運営を民間に託したのは、経費削減を狙った「民間丸投げ」で、住民サービスの向上にはなんら寄与していない。民間委託によって、情報の選別化ができなくなり、風俗本などまで購入してしまうという「おバカ」なことが起こってしまった。

言うまでもなく、公共の図書館は、私たちの税金で運営されている。その貴重な税金が、価値ある情報をタダにしてしまい、そのあげくに「情報発信基地」としての図書館の役割を毀損させてしまった。

アメリカではインターネットの急速な進展に伴い、すでに10年以上前から「図書館不要論」が巻き起こり、図書館はデジタル対応を余儀なくされた。たとえば、ニューヨークやシカゴの公共図書館は「本の貸し出し」よりも、市民のデジタルデバイド解消のための講座を開いたり、プロミラミング教室まで開いたりしている。また、著名作家を招いた有料の読書会やトークイベントを盛んに行うようになった。さらに、所蔵図書のデジタル化と電子書籍の貸し出しも行っている。

とはいえ、これは、図書館の現実に即した「生き残り策」であって、シンギュラリティを見据えた未来への対応とはとても言えない。やはり、いまのままでは図書館はやがて不要になるだろうという見方が強い。

これに対して、日本の公共図書館のデータベース化は遅れに遅れ、電子書籍の貸し出しも、現在、数十館程度でしか行われていない。著者イベントや読書会など、各種の取り組みはあるが、それも都市部の図書館だけだ。さらに、一部の図書館は、定年退職後の老人の溜まり場スポットになってしまっている。

もうこうなったら、日本の多くの図書館は不要だろう。単にハコモノとしての施設を維持するだけでも、税金がかかる。その税金は職員の給料と新刊購入に使われ、タダのものならなんでもいいという、本来の読書欲や知識欲を持った人々とは関係ない人々のために消えていく。

先の「本が売れぬのは図書館のせい」記事に戻ると、新潮社の佐藤隆信社長は、図書館の新刊貸し出しを1年間猶予するような措置を求めた。

しかし、これは焼け石に水の措置であり、本当に本を売りたいなら、「図書館の廃止」を求めるべきだ。

「情報は民主主義の通貨である」と、トマス・ジェファーソンは言ったという。しかし、その情報はいまやグーグルなどのIT企業に独占され、その有効活用が問われている。私たちがしなければいけないのは、図書館のようなハコモノを維持することではない。

もし、図書館がどうしても必要と言うなら、それは資料館としての機能だけだ。その地方独特の書誌などを保蔵し、それを後世に伝えていくということだけだろう。そうなると、これは博物館と変わらない。

というわけで、地方財政が逼迫し、高齢化が進展するなかで、介護施設や老人ホームが足りないのだから、図書館はそういったものにどんどん転用すべきだろう。30年先のシンギュラリティを考えなくとも、こちらのほうがよほど切実な問題だ。

図書館がなくなると、私のような著作者は困る。しかし、「おらが町の図書館」「市民のための図書館」がなくなって、本当に困る人がいるだろうか?

作家、ジャーナリスト

1952年横浜生まれ。1976年光文社入社。2002年『光文社 ペーパーバックス』を創刊し編集長。2010年からフリーランス。作家、ジャーナリストとして、主に国際政治・経済で、取材・執筆活動をしながら、出版プロデュースも手掛ける。主な著書は『出版大崩壊』『資産フライト』(ともに文春新書)『中国の夢は100年たっても実現しない』(PHP)『日本が2度勝っていた大東亜・太平洋戦争』(ヒカルランド)『日本人はなぜ世界での存在感を失っているのか』(ソフトバンク新書)『地方創生の罠』(青春新書)『永久属国論』(さくら舎)『コロナ敗戦後の世界』(MdN新書)。最新刊は『地球温暖化敗戦』(ベストブック )。

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