京アニ事件は「美への憎悪」か――大量殺人をともなう芸術破壊の特異さ
- 京都アニメーション放火殺人は芸術の破壊、アート・ヴァンダリズムと呼べる
- 大量殺人をともなうアート・ヴァンダリズムは世界でもほとんど類例がなく、この事件の特異性を示す
- この事件を引き起こした青葉容疑者の強い殺意には、京アニ作品の美しさへの憎悪がうかがえる
内戦やテロといった暴力を研究してきた筆者にとっても、京都アニメーション放火殺人事件の衝撃は大きかった。34人が殺害されたこの事件は、大量殺人と芸術の破壊が同時に行われた、世界でもほとんど例のないものといえる。
テロとは呼べない
この事件をどのように捉えればよいのか。
放火殺人であることは間違いない。しかし、よくある「ストレス発散のため」といった動機づけの放火事件とは比べものにならない強い殺意と憎悪がうかがえる。また、その死者数が平成以来で最悪というほど、規模が大きい。
ただし、しばしば使われる「テロ」という表現は適当ではない。以前に述べたように、テロとは何らかの政治的、宗教的メッセージを発する手段としての暴力を指すからだ。
実際、身柄を拘束された青葉容疑者は「小説をパクられたからやった」(京アニの八田社長はそもそも青葉容疑者を知らないと証言している)と言ったと報じられているが、この主張に沿っていうと、少なくとも容疑者にとっては「個人的な報復」が動機だったことになる。
強い憎悪や殺意があったとしても、そこに何らかの主義主張は見出せない。
通り魔でもない
かといって、いわゆる「通り魔」でもない。
秋葉原通り魔事件や川崎20人殺傷事件のように、通り魔の多くは日常生活を楽しんでいる人、将来のある人、余裕のある人への理不尽な憎悪によって起こるが、そのほとんどは不特定多数の人への無差別の殺傷であることが一般的だ。
今回の事件では、容疑者はわざわざ埼玉から京都まで移動して犯行に及んでいる。つまり、容疑者にとって標的は「誰でもよかった」のではなく、京アニでなければならなかったのだ。
京アニには以前から脅迫メールなどが送りつけてられていたというが、もしこれが青葉容疑者によるものなら、なおさらだ。その場合、標的への異様なまでの執着は、むしろストーカー殺人などに近いようにも思える。
アート・ヴァンダリズムとは
テロでも通り魔でもないとすると、ここで出てくるのが芸術の破壊、アート・ヴァンダリズム(Art Vandalism)だ。
京アニ作品を現代の芸術、アートと捉えるなら、今回の事件は美しいものへの攻撃となる。
歴史上、芸術が破壊の対象になることは少なくない。
ナチスは抽象画などのモダンアートを「退廃思想の産物」として美術館から破棄した。「イスラーム国」(IS)によるパルミラ遺跡破壊など、現代でも組織的な芸術破壊はある。
一方で、個人による犯行もある。ダ・ヴィンチの「モナリザ」やロダンの「考える人」など、世界的な傑作もしばしば被害にあっているが、その多くはメンタル面で不安定な者や「有名になりたかった」という短絡的な者による。
ただし、これらの場合、作品が歴史的なものであることから、製作者にまで危害が及ぶことはほとんどなかった。戦前の日本で「反体制的」とみなされた小説家などが投獄・弾圧されたように、国家によるものなら例がないわけでもないが、個人の犯行では極めて珍しい。
そのうえ今回の場合、原画などが破壊されるとともにクリエイターも数多く殺害された。個人が大量殺人まで同時に引き起こすアート・ヴァンダリズムは世界でも稀で、ここに京アニ放火殺人の特異さがある。
なぜ京アニなのか
もし京アニ放火殺人が美への憎悪、アート・ヴァンダリズムだとすれば、何が青葉容疑者を駆り立てたのか。
先述のように、青葉容疑者は「小説をパクられた」と叫んだという。京アニ社長が否定したことから、これは事実でないらしい。
青葉容疑者のいう小説そのものが妄想に過ぎなかったとしても不思議ではない。ただし、それを「パクられた」と思い込んでいるなら、少なくとも容疑者が思い描く世界と京アニ作品で描かれる世界に何らかの類似性があることになる。
しかし、ここで一つ問題がある。動画の美しさに定評があり、暴力的な描写のない京アニ作品と、青葉容疑者の素行のギャップの大きさだ。
イギリスのアニメ評論家イアン・ウルフ氏は京アニ作品を「観る人にとてもやさしい」と評する。
これに対して、報道によると、青葉容疑者は生活保護を受け、精神疾患を患っていただけでなく、コンビニ強盗の前科をもつ。さらに近隣住民との騒音トラブルで相手を「殺すぞ」と恫喝するなど、およそ京アニ作品とかけ離れた人物像のようだ。
とはいえ、「小説がパクられた」という認識がある以上、少なくとも青葉容疑者が京アニ作品を知っていたことは間違いない。ところで、社会生活がうまくいかず、さまざまなコンプレックスを抱えた人間にとって、京アニの細緻かつ鮮やかな作画で描き出される穏やかな日常や温かい人間関係は眩しく、できればそうありたいと思わせたと想像しても無理はない。
ところが、それが自分には実現不可能と確信した時、美しいものはかえって憎しみの対象にもなり得る。それは1950年の金閣寺放火事件を題材にした三島由紀夫の『金閣寺』で描かれる倒錯に近いかもしれない。
だとすれば、美しいがゆえに京アニは憎悪されたことになる。その場合、特定の作品や社長などの個人ではなく、京アニの世界観や会社全体が狙われたともいえる。
もちろん、事件の詳細は未だ不明だ。しかし、世界でも類をみないこの事件の全容解明は、アート・ヴァンダリズムという名の暴力の蔓延を防ぐうえでも重要といえるだろう。