倉嶋厚さんについての追想記
今年、2017年(平成29年)8月3日、元鹿児島地方気象台長でNHKの気象キャスターとしても高名な倉嶋厚先生が亡くなられました。生前、倉嶋さんの薫陶を受けた者として倉嶋さんが日本の気象業界、そして気象解説の分野にいかに大きな影響を与えられたかについて、少し書き留めておきたいと思います。
幼少期
倉嶋さんは1924年(大正13年)1月、長野県長野市に10人兄弟の9番目としてお生まれになりました。父親は仏教関係の新聞社を経営し、長兄は長野市長を務められていました。そうした家族環境からか、幼い頃から勉学に励み父親から叱られた記憶もあまりなかったようです。
父親には、仏教的死生観や宇宙観のような素養を教えられたといいます。
例えば、虫取り網の棒に父親が書いた住所は、「三千大世界大宇宙銀河系太陽系地球北半球亜細亜州大日本帝国中部地方長野県上水内郡(かみみのちぐん)長野市」ときて、さらに住所が続いて倉嶋厚という名前のあとにも「一寸之虫五分之魂」と記されていたといいます。
こうした幼いころからの父親の影響を受け、自然や森羅万象についての興味や知識を深めたのだろうと思われます。
中央気象台付属気象技術官養成所本科をへて海軍入隊 終戦後、研究の道へ
倉嶋さんは太平洋戦争の始まった1941年(昭和16年)に旧制長野中学を卒業し、中央気象台付属気象技術官養成所本科、現在の気象大学校をへて海軍に入ります。その後、海軍気象部技術少尉として京丹後市の峰山に配属されたときに終戦を迎えます。
戦争が終わると再び中央気象台に復員しますが、終戦の翌年、1946年(昭和21年)に気象技術官養成所に研究科が新設されることになりました。そこで、倉嶋さんも新たにその研究科で3年ほど勉学をなさることになります。
学生時代に習った俳句 「風流気象学」の礎に
その頃、研究科同級生の神山恵三氏らと一緒に俳句も習いに行っていたそうです。
当時を知る増田善信(よしのぶ)氏によると、学業成績はいつもトップクラス、俳句の腕前も抜群で、卒業するときに倉嶋さんが詠んだ「下駄箱に 草履残して 卒業す」という句を今でも覚えているとのことでした。
倉嶋さんは、ご自分でもよく、「人文気象学」あるいは「風流気象学」といって、普通の人々の生活感覚や、季節感、自然感が大切だと、おっしゃっていました。数多く出された著作の中にも、自作の俳句を時折、紹介なさっていましたが、この俳句の素養は学生時代に培われたものと思われます。
大恋愛のすえ28歳で結婚
研究科をご卒業のあとは気象予報の現場で実践力を磨いていくことになりますが、このころ、倉嶋さんは大恋愛をいたします。お相手は、のちの気象庁長官高橋浩一郎氏が予報課長の頃の秘書、小堀泰子さんという方です。小堀さんとの恋愛、そして結婚は、倉嶋さんいわく、南こうせつさんの歌う「神田川」のような青春だったとのことです。
肺結核の療養中に学んだロシアの気候 「光の春」はロシア語から
ところが結婚して半年たらずの1952年(昭和27年)倉嶋さんは肺結核にかかり3年間の療養生活を余儀なくされるのです。
結婚してこれからというときの隔離生活は大変辛かったろうとお察しいたしますが、実は倉嶋さんはこの時期にロシア語を独学で学び、ロシアの気候や季節に対して深い知識を得るのです。
有名な「光の春」という言葉があります。
実はこの言葉は、倉嶋さんがロシア語を日本語に翻訳したものです。
日本などでは、春というと気温の上昇が真っ先にイメージされますが、春になっても気温が氷点下10度、20度というようなロシアでは、気温より先にまず光のちょっとした変化で春を感ずるのです。
こうした、ロシアにおける季節感などを日本に紹介したのも、倉嶋さんの功績でしょう。
ところでなぜロシア語を学んだのかということですが、これは私の推測になりますが、当時は太平洋戦争への深い反省から、社会主義に希望を見出す知識人が多かったと思われます。そうした時代背景から倉嶋さんも社会主義国ソ連に興味を持ったのではないでしょうか。
また奥様になられた小堀泰子さんが、レッドパージによって気象庁を失職されたことも無関係とは言えないでしょう。
倉嶋さんご自身も1958年(昭和33年)に組合員約3000名の全国気象職員組合(全気象)の委員長を引き受けられており、当時は左翼的な考え方を持っていらっしゃったのだろうと思います。しかしその後の著作などからすると、政治的なことには距離を置き、「風流」な自然や気象というものに傾倒されていく様子が分かります。
気象庁時代の功績 有珠山の火山泥流予報や桜島上空の風の情報を提供
さて、結核を克服なされ、倉嶋さんの気象庁時代に話を戻すと、研究以外にも多くの業績を残されています。
例えば1977年(昭和52年)、札幌管区気象台の予報課長だったとき有珠山が噴火します。噴火で降り積もった火山灰が大雨で流れ出すと、火山泥流となって大きな被害が発生します。
そこで倉嶋さんは、雨の予報をもとに泥流予報マニュアルを作成し、より早い避難ができるようになるなど、大きな成果を上げたのです。
また1983年(昭和58年)、鹿児島気象台長をされていたころは、桜島の噴火が大変活発な時期でもありました。
この頃、鹿児島県内の関係機関から、「火山灰の予測ができないか」との相談を受け、上空1000メートルから1500メートルの風の状況を提供するように配慮いたしました。
これもいまから見ると当たり前のようですが、当時の気象データの民間への配信というのは、賛否両論あったと聞きます。
NHK気象キャスターとして活躍 画期的な気象解説で支持を集める
倉嶋さんがテレビに出られるようになるのは、1981年(昭和56年)の「テレビ気象台」という番組が始まりです。
NHKの教育チャンネルで30分間、気象情報だけをメインにしたものです。
当時、倉嶋さんは気象庁の主任予報官でしたが、私は初めてこの番組を見た時に、その新鮮さと、内容の濃さに大変影響を受けました。その頃、私自身もお天気キャスターをしていましたが、倉嶋さんの知識の深さと解説のシンプルさに毎回感動して、よく自分の放送にも参考にさせていただいた記憶があります。
さらに倉嶋さんは1984年(昭和59年)気象庁を退職されると同時にNHKの解説委員となられ、「ニュースセンター9時」の気象キャスターを担当なされます。
この天気解説は、それまでの天気番組とまったく違っていて、人間の身長よりはるかに大きな天気図の前で、倉嶋さんが自由に動き回るのです。その動作の大きさから、一部では「倉嶋体操」と揶揄される向きもありましたが、この画期的な天気番組は多くの視聴者から支持を集めました。
例えば夏の暑い日、倉嶋さんはまず、その日の気温の変化グラフを画面に見せます。そして、そのグラフの上に、自分が今日一日、温度計を持って歩き回った結果を載せます。
通勤の電車の中の温度、公園の中の温度、冷房の効いたビル内の温度、そうして倉嶋さんは、観測所で測られる温度と、人々が生活する実際の温度とは違うことを教えてくれたのです。
天気解説で大事な「おやまあ」「そうそう」「なるほど」
倉嶋さんは、天気解説で大事なことは「おやまあ」「そうそう」「なるほど」の三つだといいます。
「おやまあ」は、びっくりするような発見や出来事、そして「そうそう」というのは、今日は風が強くて困りましたね、というような共感、さらに「なるほど」というのは、視聴者の方がその説明を聞いて納得することだそうです。
考えてみれば「おやまあ、そうそう、なるほど」は、天気予報以外にも、伝える者の原則なのだろうと私は思います。
最愛の妻を失い、患ったうつ病を克服 「人生70点主義」
さて、倉嶋さんについて、もうひとつお伝えする事があります。それは最愛の奥様、泰子さんを病で失い、そのショックからご自身がうつ病になってしまった事です。
ご自宅のマンションから、何度も飛び降りようと試みるほどの重症でしたが、倉嶋さんの異変に気付いたお手伝いの方のはからいで精神科に入院し、うつ病を克服します。
その経過は『やまない雨はない』(文芸春秋)という著書に詳しく書かれていますが、倉嶋さんは、病を克服するなかで「これまでの自分は完璧を求めすぎていたのではないか」と反省し、人生は70点取れれば良い。以後、70点主義で行こうと決めたのだそうです。
「風流気象学」いまこの瞬間、目の前に広がる自然や季節をただ楽しむ
「過去を見れば後悔ばかり、今を見れば苦しみばかり、未来を見れば不安ばかり・・・」という現状から、まずはすべてを忘れ、いまこの瞬間、この目の前に広がる自然や季節といったものを、ただただ楽しむというのが最も大切な事だというのが、倉嶋さんの云う「風流気象学」だと、私は考えています。
冬の極寒や夏の酷暑を厭わず、むしろそこに楽しみを見つけるというのは、ある意味、知識の要ることだと思います。
逆に言えば、自然や気象を学ぶことによって、楽しみが広がるという事でもあるのでしょう。
最低気温が25度以上の日を「熱帯夜」といいますが、この言葉も倉嶋さんが作られました。
倉嶋さんの亡くなられた8月3日というのは、一年のうちでも最も暑さの厳しい時期です。宮澤賢治ではありませんが、その暑さにも負けず、寝苦しい夜をものともせず、過酷な気象状況をも受け入れ、むしろ楽しむ。
そうした意味をこめて、来年からはこの8月3日を、倉嶋さんに因んで「熱帯夜忌」と呼んだらどうでしょう。
註:この記事はNHK「視点・論点」(平成29年12月25日放送「シリーズ・次世代への遺産 倉嶋厚」、著者出演)の内容を加筆・再構成したものです。
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