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あるべき経営を探究する立場から、憲法への「自衛隊明記」を考える

遠藤司皇學館大学特別招聘教授 SPEC&Company パートナー
(写真:ロイター/アフロ)

 4月6日、衆議院憲法審査会が今国会において初めて開かれた。

 知らない人も多いようだが、実は自民党は立党当初から「平和主義、民主主義及び基本的人権尊重の原則を堅持」した上での「現行憲法の自主的改正をはか」ることを政綱の六番目に掲げている。よって憲法に関する議論は、改正そのものではなく、その目的である平和や民主制および「人権」の尊重を堅持する方法に焦点がおかれ、改正の云々はそれを実現する手段とみなす必要がある。

 また、政綱ではその後に「世界の平和と国家の独立及び国民の自由を保護するため、集団安全保障体制の下、国力と国情に相応した自衛軍備を整え、駐留外国軍隊の撤退に備える」とある。つまり自民党は、国家と国民の自由の保護を目的とし、いずれ「駐留外国軍備」が撤退した時のために、自衛軍備を整えることを目指したのである。この点は重要であり、ときに自民党は、日本を戦争国家へと変貌させるために憲法の改正ないし改悪を志向していると印象づける者が現れるが、本来的には平和や「人権」の尊重、国民の自由の保護が目的とされる。

 立党50年宣言の中で掲げられた新綱領でも「新しい憲法の制定を」との項目があり、立党55年の平成22年(2010年) 綱領でも政策の基本的考えの一つ目に「日本らしい日本の姿を示し、世界に貢献できる新憲法の制定を目指す」とあるから、現行憲法の改正あるいは新憲法の制定は、自民党の方針として重要な意義をもつようである。

 ところで4月2日にはジャーナリストの櫻井よしこや憲法学者の百地章・日本大学名誉教授らによる「憲法改正の国会発議を求める!言論人・有識者の会」の記者会見が開かれた。同会見の影響により審査会が開かれたのかは定かではないが、会見では自衛隊の明記を柱とする憲法改正条文案の早期取りまとめを求める声明が出されている。呼びかけ人の一人である元陸上幕僚長の岩田清文は「(違憲論があり)立場が曖昧な憲法を順守させつつ、いざというときは命をかけろ、というのが国の自衛隊員に対する要請だ。後輩たちをこのような矛盾と苦悩の中に引き続き置きたくない」と述べている。

 動画をよく観られた人は、筆者も「賛同人」として最後にコメントを表していることに気づかれたかもしれない。筆者は憲法学者ではなく、実践知たる経営学の研究者である。その筆者が、悩みながらもどうして今回の「賛同人」となる意思を固めたのか。その理由を記しておきたい。

憲法とは何であるか

 筆者は大学生の頃には憲法のゼミに所属し、大学院でも憲法を含めた政治思想の研究を続けた上で、経営の方面に関心を移した。ゆえに他の経営学の研究者とは、少しものの見方が異なることを自覚している。端的にいえば、国家においては憲法を、経営においては各種の基本的制度を、単なる法律やルールとしてのみ捉えてはいない。

 憲法とは、英語では Constitution の訳語であり、その本来の意味は構成、構造に加え、素質や素養、組成などである。ラテン語の語根では con (ともに・まとめて)statuō(立てること)であり、全体のかたち・ありようを意味する。われわれ人間は、日々の営みの中で、状況に応じて様々な動きをとりながら、長い年月をかけた「ともに立てること」の連続の中で、現実の社会を成立させている。

 したがって国家における Constitution は、憲法という法典を示すものというよりは、国制とか国柄といった、内実を表す言葉の意味合いの方が強い。あるいは「憲」が基本の法則を意味する語であるならば、国憲という言葉を充てたほうが妥当かもしれない。そして憲法という法典ないし法律は、その内実の実際の表現であり、あるいは正しさを求める過程を通して実現される姿である。そして実際のところ、国家の「あること」と「あるべきこと」は、世の変化の中で少しずつ変わりゆく。

 会見の中で、筆者は2分程度という短い時間の制約の中で「存在」という言葉を何度も使い、自衛隊という存在を、国民という聴衆に向けて強調している。一般に存在とは、現にそこに在ることを意味する。また自衛隊は、大きな災害や戦争などの国難においては、いち早く最前線に立ち、身を削りながら国民の為に奉仕する社会的役割と国家的機能を、現にもつ。そういう重要な「存在」が、虚構の世界ではなく現に実在しているにもかかわらず、日本国憲法下では曖昧なものとみなすほかない運用がなされているのである。それでは憲法は、嘘とは言わないまでも、内実を表さないお飾りとか、解釈次第でどうにでもなるものとさえ、国民に思われてしまう危険がある。

 そして自衛隊とは、人間の組織である。人は何らかの目的や役割の中で、自覚的に「存在」している。対して、自分の存在のありようを自らに問いかけたとき、不明瞭であり続けることを強いられるならば、自己喪失の状態に留め置かれることになる。そのような人間に向けて、それを強いる当人が「いざというときは命をかけろ」と要請することに、いかなる正当性が見出されようか。自衛隊員のみならず、われわれの生命や尊厳を守るはずの国家そのものが、憲法の歪みを是正しなかったことにより「矛盾と苦悩」を抱えるに至ったのである。

 われわれ国民には、他の国民と相互に助けあい、献身しあう責任がある。否むしろ、心をもつ人間として、われわれに奉仕する自衛隊の存在意義について考え、かれらの支えとなるべく立場と役割を明瞭にしようと思い至るのは、自然なことではないか。この長年留保されてきた問題に対して真剣に向き合うことは、国民一般もまた自覚的に「存在」するための契機となるのだと、筆者は考えるのである。

 余談だが、最後に言葉を詰まらせてしまったのは、自衛隊のみならず、様々な人たちの顔が頭に浮かんでしまったからである。自己を確立できず、生きる意義を感じられない環境に置かれた人は少なくない。憲法を「ともに立てること」により、人びとがみな老若男女争うことなく、あるいは人種や立場に関係なく、相互に助け合う国家をつくることが出来るのではと思い、賛同人として名を連ねた次第である。

われわれは何であるか

 会見でも述べたが、国家運営にせよ企業経営にせよ、それがいかなる存在であるか、ゆえにまた成員がいかなる役割をもつのかを明らかにしなければ、将来に向けて存続することは難しくなる。

 よく知られているように、マネジメントの父ピーター・ドラッカーは、いかなる組織も事業の目的と使命、「われわれの事業は何であるか、何であるべきか」を考えねばならないと説いた。自らが何であり、自らの価値、主義、信条が何であるかを定めるとき、各々の施策の優先順位や戦略を方向づけ、資源のばらまきを防いで統一性のある方策、全体戦略を描くことができるようになる。

 またドラッカーは、組織をして一人ひとりの人間に「位置と役割」を与え、自己実現と成長の機会を提供しなければならないともいう。人はただ、衣食住のみ確保すれば生きられるのではない。他者と共に生き、相互に支え合うことで自分らしく生きなければ、心から幸福といえる人生を送ることはできない。

 新興企業の場合には、その目的や使命は、外の世界との関わりにおいて初めて見出すことも可能であろう。しかし国家の場合には、すでに悠久の昔から「存在」し続けてきた。それは、自ずからわれわれの身体に合うに至った衣服のようなものであり、現に我々の生活とともにあり、また内包してこれを支えている。したがって国家の「何であるか」は、新たに構想するものではなく、ましてや誰それの頭の中で考え出す対象ではない。過去から連続した歴史的経験の中から、いわば見出すものである。

 哲学者ソクラテスは『メノン』の中で「あるものが何であるかを知らないのに、それがどのようであるかを、どうして知ることができるだろう」と問うた。いまこそ、日本という国は何であるか、どのようであるかを問うことにより、皆で力を合わせて、本当の姿かたちを描き出すことに力を注ごうではないか。たとえ今回は失敗に終わろうとも、真実に向かい続ける限り、いつかは到達できるのだから。

 最後になるが、筆者は自民党員ではないし、今後も特定の政党に与することはないと思う。また、平和と国民の安寧を心から希求し、国家による統制ではなく、人びとの自由と尊厳を守るためにこそ尽力する立場である。こうして筆者は、人びとが誇りや生きがいをもつことのできる国家になればと願うのである。

皇學館大学特別招聘教授 SPEC&Company パートナー

1981年、山梨県生まれ。MITテクノロジーレビューのアンバサダー歴任。富士ゼロックス、ガートナー、皇學館大学准教授、経営コンサル会社の執行役員を経て、現在。複数の団体の理事や役員等を務めつつ、実践的な経営手法の開発に勤しむ。また、複数回に渡り政府機関等に政策提言を実施。主な専門は事業創造、経営思想。著書に『正統のドラッカー イノベーションと保守主義』『正統のドラッカー 古来の自由とマネジメント』『創造力はこうやって鍛える』『ビビリ改善ハンドブック』『「日本的経営」の誤解』など。同志社大学大学院法学研究科博士前期課程修了。

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