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笑福亭仁鶴が人気を保ち続けた「秘密」は何だったのか 世界を一変させた仁鶴の背後にあったもの

堀井憲一郎コラムニスト
(提供:GYRO_PHOTOGRAPHY/イメージマート)

テレビタレントなのに落語を演じておもしろい

笑福亭仁鶴の落語は、古典的であり、革新的であった。

1970年ごろ、笑福亭仁鶴は大人気のタレントだった。

1969年から始まった『ヤングおー!おー!』での司会で大きく売れ出し、テレビで人気のお笑い芸人だった。

1969年当時32歳である。

そのころ「仁鶴はラジオがおもしろい」と、これはたとえば中学校で噂になり、中学生もこぞって聞き出した。

このあたりは1970年当時京都の中学生だった自分とまわりの実感から、仁鶴がいかに落語を広めていったのかというシーンを書き起こしている。

テレビとラジオでお笑いタレントとして広く認知された仁鶴について、続いて入ってきた噂は「仁鶴は落語もきちんとやって、それがとてもおもしろい」という情報である。

テレビタレントであるのに本業もおろそかにしていないという意味で、好印象をもって語られていた。

『仁鶴古典独演会』というレコードが売れた

テレビでの短い演芸番組などでも仁鶴の高座を見たことがあったが、彼の落語が広まったのはレコードからだったようにおもう。

当時売り出された『仁鶴古典独演会』というレコードには「初天神」「向う付け」「青菜」「七度狐」の四席が入っており、タレントとして大人気だった仁鶴の勢いのある高座が収められている。

このレコードが売れた。

うちの中学校での昼休み、放送部がこのレコードを校内で流したことがあった。ふつうならクラシック音楽などを流す時間に、仁鶴好きの放送部員がいたのだろう、「初天神」が校内に流れたのだ。あ、仁鶴の初天神や、と好きな者はスピーカー下に集まり、大笑いしながら聞いていた。それが1972年ごろの風景である。

このレコードの音源は、ラジオでも何度か流されており、そのときカセットテープに録音して、何度も聞いた。しゃべり出してすぐに客席から「落語!」と声がかかり「落語って、、」と仁鶴が苦笑する高座である。

何度も何度も何度も聞いて覚えてしまって、それをそのまま真似て喋ったら仲間うちですごく受けた。

その経験から落語にはまってしまい、爾後、五十年にわたって落語を聞き続けることになる。

正統の上方落語をおもしろいものとして若者に広めた

仁鶴の落語の音は、とてもコピーしやすかった。それをきちんと復元すれば、必ず受けた。そこのところがすごい。

笑福亭仁鶴は、正統の上方落語を「とてもおもしろいもの」として広めた落語家だったとおもう。

あまり「自分独特のギャグ」を入れ込んでいない。

ラジオテレビで人気のタレントであり、また言えば必ず受ける「ギャグ」も持っていたが、落語の中にそれを取り込んでいないのだ。

先人から習った内容をなるべく変えない、という意思がかなり強かったのではないだろうか。

桂枝雀と笑福亭仁鶴の違い

仁鶴とほぼ同期の桂枝雀は、仁鶴が売れた三年ほどあとから落語家として頭角を現し、一世を風靡する人気落語家になった。

枝雀の落語は「枝雀落語」と呼ばれる独特のものであった。

枝雀落語も人気で、彼の喋りをコピーして喋ればこれまた必ず受けたのであるが、この場合、落語だけではなく「桂枝雀そのものをコピーしている」という感じになってしまうのだ。

枝雀は落語のすみずみまでに独創的な工夫を凝らし、上方落語の姿まで変えてしまう独特の落語の形を作り出したから、その落語のおもしろさと、枝雀の存在そのものが切り離せなくなっていた。

音の出し方も独特で、コピーすれば「あ、それ、枝雀だ」ということが即座にわかるものになっている。

そしてそれはプロの落語家にも影響をおよぼし、いまだに東京の寄席でもときどき(ああ、喋りが枝雀そのまま)という高座に出くわすことがある。

仁鶴の落語にはそういうクセはない。

かなり正統でまっとうな「上方落語」を継承している。

おそらく「明治から続く上方の落語」をそのまま再現して、その本来のおもしろさで笑わせようと心がけていたのではないだろうか。

それはべつに伝統の継承とか、そういう意図ではなく、落語家として落語に向かう彼の態度そのものの問題である。

初代桂春団治(1878−1934)が好きだったというのと関係しているかもしれない。

聞いていると幸せな気分になれる仁鶴の落語

仁鶴の高座は、落語がもともと持っている「とても楽しい気配」を底から引っ張りだしてきて、その楽しさに自分の身を委ねて、聞いている人も巻き込んでいくような、そういう落語であった。

聞いていると幸せな気分になる落語なのだ。

たぶんそこに仁鶴落語の秘密があるとおもう。

落語を通して自分を押しだしていこうとしていない。

落語の中にひそんでいる「楽しい部分」を引き出すのを、自分の使命としている。

仁鶴の高座は、いつも「何か楽しそうなことを起こしそう」という気配で満ちていて、客のほうから、笑うきっかけをずっと待っている。

仁鶴はその空気を作るのがすごくうまかった。だから必ず受ける。

「大阪落語は遠からず滅びるであろう」と谷崎潤一郎は言った

上方落語はいっとき演じ手がほとんどいなくなり、かなり衰弱した時期があった。

簡単に振り返ると、上方落語は、明治期に全盛を誇ったが、大正時代の新しい大衆文化についていけず、すたれていったのだ。そのまま戦争期になり、終戦直後は、上方落語の演者が絶滅しそうになっていた。

「大阪落語は遠からず滅びるであろう」と新聞に谷崎潤一郎が書いてしまうようなありさまであった。

戦争が終わったあと、東京では桂文楽(1892−1971)、古今亭志ん生(1890−1973)、三遊亭圓生(1900−1979)らの、明治生まれの大御所が脂の乗った高座を見せていた。

それに反し、上方で同じポジションにあった五代笑福亭松鶴(1884−1950)や、二代桂春団治(1894−1953)が1950年代(昭和二十年代)に次々と死んでしまったのだ。

1960年代に「明治生まれの一流の落語家」がいるかいないかが、関西と関東の落語界の大きな違いであった。

松鶴・米朝・春団治・文枝が四天王と呼ばれたわけ

上方では若手が踏ん張った。

六代目笑福亭松鶴、桂米朝、三代目桂春団治、五代目桂文枝あたりは、いわばまだ二ツ目になったばかりのキャリアであったが(松鶴だけすこしキャリアがあった)、彼らが上方落語を支えて、復興させていった。

この四人が上方落語四天王と呼ばれるようになる。

彼らの兄弟弟子などに露の五郎、桂米之助、笑福亭松之助、林家染丸などもいたが、でもまさに数えるほどであった。

松鶴、米朝、春団治、文枝が四天王と呼ばれたのは、この弟子のなかに師匠に並ぶほど売れた高弟がいたからである。

桂米朝門下には桂枝雀、桂春団治門下には二代目桂春蝶、桂文枝門下には桂三枝がおり、それぞれ売れていた。桂春蝶というのは、あまり東京では知られていなかったかもしれないが、1970年代は落語家としてもタレントとしても、関西ではとても著名であった。

そして笑福亭松鶴門下に笑福亭仁鶴。

これらの若手の人気落語家と、四天王を始めとしたベテランの落語家によって、1970年代には上方落語ブームが起こった。

1970年代のブームは、個人的に見えていた風景では、四天王が下地を作り、仁鶴と春蝶と鶴光が火を付け、枝雀が広げた、という印象になる。(三枝の新作落語活動がめざましいものになるのは、もうすこしあと)。

地上からネタが永遠に消えてしまうという恐怖

松鶴、米朝、春団治、文枝らの世代は、上方落語の演じ手がどんどんいなくなる時代に入門し、いま、老人たちに上方落語を教わっておかなければ、いくつかのネタは地上から永遠に消えていってしまう、という強い焦燥感とともに活動していたメンバーである。

「上方落語を消すな」というメンバーの中心にいたのが松鶴であり、その一番弟子という立場で、仁鶴にはやはりそれに近い感覚があったのではないか、とおもう。

あくまで彼の落語を通して得た感覚からの推測であるが、そう感じられる。

「貧乏花見」「無いもの買い」「道具屋」「黄金の大黒」

レコード『仁鶴古典独演会』はかなり売れたらしく、『続仁鶴古典独演会』も出た。これに収められていたのは「貧乏花見」「無いもの買い」「道具屋」「黄金の大黒」の四席。

これらはCD化もされ、その音源はいまでも手元に持っている。

「初天神」「向う付け」「青菜」「七度狐」も加えた八つの演目を、いまあらためて聞いていると、三十代でタレントとして売れに売れていた時代の仁鶴の落語の姿がわかる。

ラジオの喋りをそのまま落語に持ち込んだ

当時の仁鶴は、喋りで引っ張っていく力が尋常ではない。

圧倒的迫力とテンポで、畳み込むように語りつづけていたラジオ番組から、そのまま抜けでてきたような喋りなのだ。

これは革新的であった。

落語は年寄り向けのものである、という感覚を仁鶴はきれいにぶっつぶしていった。

その点においては、上方落語史上に残る革新的存在であったとおもう。

仁鶴の落語は、まず、高めの音で入る。そのまま、そのテンションをずっと保つ。

ふつうの落語家は、あまりこれをやらない。最初に圧を強めてしまって引かれるとその後、客は二度と戻ってこないからだ。でも三十代の仁鶴はそれをやり続ける。それはたぶん客席から「大人気タレント」に対する熱気の圧がものすごく、それに負けないためにも、こういうハイテンションで押し切っていたからだろう。

人物にメリハリをつけない仁鶴落語の特徴

また、年寄り(甚兵衛さん)と若者(喜六)の会話であっても、年寄り側の音やテンポを落とさない。人物によってメリハリをつけない。

ここが仁鶴落語のひとつの特徴だとおもう。

落語は芝居とは違い、演者が役になりきってしまうものではなく、細かく演じ分ける必要はないのだ。メリハリをつけて陰翳を出す方法もあるが、三十代の仁鶴はそれを取っていない。

そして「間合い」をできるかぎり詰めている。

たっぷり間合いを取ることはなく「ものすごく短い間合い」と「すごく短い間合い」と「短い間合い」ぐらいで使いわけ、それでしっかり笑いを取っている。

間合いを詰めるので、そのぶんおそろしくテンポがよく、とんとんとんと進み、あっという間に終わる。

見事である。

まさにこれこそが落語ではないかと、五十年経って、あらためておもう。

上方落語のその正しい姿を見ている気分になる。

また、レコードに収録された演題はどれも15分以内である。

ここもすばらしい。

落語前の地語り(マクラ)を含めて14分というのは寄席(演芸場)で演じるのにピッタリなのだ。

たぶん、人が黙って聞いていられるのは、そのへんがいい時間なのだろう。

東京の寄席でも、だいたいの演者は12、13分くらいで一席を終える。

そのサイズで仕上がっている。(そういう場で録音されたからだとはおもうが)。

絶品である「青菜」の後半

とくにいま聞いても「青菜」の後半の展開は絶品である。

長屋に戻ってから、旦那の家でのまねごとをするテンポの良さは、ちょっとほかでは聞けない。

夏になるといまでも寄席で「青菜」はよく聞くが、こういう手際いい高座をほとんど見かけることはない。

「青菜」は、後半の「まねごとの失敗」が受けるのでそこをたっぷり演じる演者が多い。

仁鶴は、テンポよく、淡々とすすめ、それで大笑いを取っている。

笑いを取るために時間をかけてしまうというのは、落語家の悲しい性であって、落語家自身のために勝手にやっていることかもしれないと、三十代の仁鶴を聞きながらおもってしまう。

明治のころの世界をそのまま復元させる笑福亭仁鶴

仁鶴の落語では、明治のころの言葉と情景をそのまま展開することが多い。たまにわからない部分もあったのだが、勢いで押されて気にならなかった。

あらためて感心するのは、人気絶頂の三十代の仁鶴が落語で受けているのは、仁鶴オリジナルギャグではなく、昔からの「くすぐり」で、つまり明治から(ひょっとしたら天明寛政のころから)使われているギャグで大笑いを取っているところである。

大昔からのギャグで当時の若者は笑い転げていた。

それは落語にとって、とても幸せな瞬間だったとおもう。

仁鶴と三枝が続けさまに落語を演じた「東西落語研鑽会」

21世紀になり00年代のなかごろ、東京で上方落語を見るイベントが続けさまに開かれていたことがある。春風亭小朝が先頭になっていろんな催しを展開していた。そのころの「東西落語研鑽会」や「大銀座落語祭」で仁鶴の高座を何度か見た。

いまおもいだしてもすごかったのは2005年1月に開かれた第11回の「東西落語研鑽会」。

最初に林家彦いちが出たあと(「反対俥」)、首謀者の春風亭小朝が登場して「竹の水仙」、そのあと笑福亭仁鶴が出て「不動坊」、これが33分の高座だった。

そこで仲入り。

休憩後に登場したのが桂三枝で「背なで老いてる唐獅子牡丹」の27分の高座。

仁鶴と三枝が連続で出てくる落語会というのは、たぶん、ほかに存在しなかったのではないか。東京ならではである。

トリは立川談春で「ねずみ穴」42分。

すべて痺れる高座の連続だった。

上方落語らしい世界をきちんと東京に届ける

池袋で開かれた「桂米朝一門会」で桂米朝の代演として仁鶴が出演したのも見た。これは2006年9月。

2005年から2006年のあいだに、仁鶴の高座を五回見た。

五つともネタが違っており「不動坊」「つぼ算」「質屋蔵」「崇徳院」「向う付け」。

上方らしい五つを聞いた。どれもすばらしかった。

すでに六十代後半の仁鶴であるから、三十代のときのような勢いだけで喋りつづける高座ではない。

昔と違って、けっこう間合いを取っていた。

六十代になっても変わらなかった仁鶴落語の幸福感

仁鶴は、六十代になっても、相変わらず言葉は正確である。

スピーディさはない。

でも「登場人物にメリハリをつけない」というのは変わっていない。

東京の若手のなかには、この高座をどういう方向から聞けばいいのか、わからない者もいるようだった。

登場人物は、メリハリをつけるほうがわかりやすく、受けやすい。

音に高低、強弱、濃淡をつけて、別の人物として話すほうが、演じやすいし、聞くほうも見当がつけやすい。

でも仁鶴はそこにこだわらない。

キャラクターで笑わせないというのは、何だか明治人の決意のようにもおもえるが、そういう気配がある。

三十代の仁鶴は、どんどん間合いを詰めて、押して話していた。

押して押して押して押して、ふっと引くので、明治のくすぐりで大笑いを取っていた。

でも六十代になると、押してこない。

押さないで、押さないで、押さないで、でもふっと引くので、大きく笑いが起こる。会場中に渦ができるような大きな笑いが何度も起こっていた。

三十代とは空気が違うが、でも聞いていて、始終楽しい。

仁鶴落語の秘密の部分は変わっていなかった。

六十代になっても、笑福亭仁鶴が高座にいるだけで、それだけで楽しいという空気を作られている。

何かわからないけど、でも必ず何か楽しそうなことが起こりそうだと、やはり21世紀になっても感じさせた。

六十代になると連続的な笑いは起こらないが、でもツボに入るたびに会場はどっと笑いに包まれた。

それはその仁鶴の秘密の空気が形成されているからだろう。

若いころと、喋りのテンポは少し違っていた。

でも、終始、楽しいことを起こそうという気配は変わっていなかったのだ。

すごい、とおもわず唸ってしまった。

落語の姿勢のいい人

落語の姿勢がすごくいい人だった。

昔の上方落語を、きちんと伝え、しっかりと広めた。

細かくいえば「上方落語の筋のいいおもしろさと明治の空気を、1970年代の若者に圧倒的迫力で植え付けていった」ということではないだろうか。

あらためて、すごい落語家だとおもう。

彼から始まった勢いで、上方落語はその裾野を広げた。

「大阪落語は遠からず滅びるであろう」とは、いまは誰も言わない。

そのために走り続けた昭和の上方落語家の一人であった。

コラムニスト

1958年生まれ。京都市出身。1984年早稲田大学卒業後より文筆業に入る。落語、ディズニーランド、テレビ番組などのポップカルチャーから社会現象の分析を行う。著書に、1970年代の世相と現代のつながりを解く『1971年の悪霊』(2019年)、日本のクリスマスの詳細な歴史『愛と狂瀾のメリークリスマス』(2017年)、落語や江戸風俗について『落語の国からのぞいてみれば』(2009年)、『落語論』(2009年)、いろんな疑問を徹底的に調べた『ホリイのずんずん調査 誰も調べなかった100の謎』(2013年)、ディズニーランドカルチャーに関して『恋するディズニー、別れるディズニー』(2017年)など。

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