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【深掘り「どうする家康」】今川氏真は和歌や蹴鞠にしか能がない、無能な武将だったのか

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
今川氏真が最後に拠った掛川城。(写真:イメージマート)

 大河ドラマ「どうする家康」では、今川氏真が注目されている。氏真は和歌や蹴鞠にしか能がない、無能な武将だったと評価されているが、その点を深掘りすることにしよう。

 天文7年(1538)、今川氏真は義元の嫡男として誕生した。氏真が家督を継承した時期は諸説あるが、実際には義元の生存中に行われたと指摘されている。

 永禄3年(1560)5月、義元は桶狭間の戦いで織田信長との戦い敗れ、戦死した。義元は公家文化に親しみ、和歌などの文芸にうつつを抜かした無能武将と言われてきたが、今や、その評価は改められている。こちら

 桶狭間の戦いの直後、今川氏は滅亡したわけではない。実質的に今川氏が滅亡したのは、永禄12年(1569)のことである。氏真はその後も長生きし、亡くなったのは慶長19年(1614)のことだった。

 滅亡するまでの間、氏真は北条、武田、徳川の諸氏を相手にして、よく家を保ったといえるかもしれない。実は、氏真も父と同じく、和歌に加えて蹴鞠が得意だったという。それゆえ、後世における氏真の評価は、ことごとく低いのである。

 松平定信は、その著『閑なるあまり』の中で、氏真が歌道に執心するあまり、滅亡してしまったとの趣旨のことを書き残している。それは、周防の大内氏(学問)、将軍足利義政(茶道)も同じ評価である。

 『甲陽軍鑑』もまた、氏真が国を滅ぼした無能な大名と評価している。その理由は、譜代の家臣を重用せず、佞人を登用した旨を挙げている。こちらには和歌が出てこないが、評価が無能であるのは同じだ。

 『徳川実紀』は、父の義元が桶狭間で討たれたにもかかわらず、氏真は信長に復讐すらしなかったと辛らつに批判している。当時、武士たるものが辱めを受けた場合は、復讐するのが当然だったからだ。

 むろん、氏真は今川家を滅亡に追い込んだのだから、間違っても有能とは言えない。とはいえ、氏真が歌道や蹴鞠に耽っていたから、無能であると決めつけるのは早計だろう。

 当時、武田、北条が関東、東海地方で大勢力を誇っており、信長と同盟した松平元康も勢いを増していた。そうした政治的な状況の中、十分に家臣団をまとめきれず、外交に失敗したというのが実情だろう。なんでもかんでも歌道や蹴鞠のせいにするのは、慎む必要がある。

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『大坂の陣全史 1598-1616』草思社、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房、『倭寇・人身売買・奴隷の戦国日本史』星海社新書、『関ヶ原合戦全史 1582-1615』草思社など多数。

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