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【光る君へ】後継者になれなかった藤原伊周が藤原道長に行った嫌がらせの数々

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
京都御所 承明門。(写真:イメージマート)

 今回の大河ドラマ「光る君へ」では、藤原道兼(道隆の弟)の死後、道長(道隆の弟)が後継者として内覧を務めることになった。藤原伊周(道隆の子)は後継者になることができず、道長との対決姿勢を強めた。実は、伊周は道長に数々の嫌がらせを行ったので、取り上げることにしよう。

 長徳元年(995)、関白だった藤原道隆が亡くなると、弟の道兼が後継者になった。ところが、その道兼も疫病に倒れ、関白に就任してまもなく亡くなった。

 当初、後継者は伊周(道隆の子)が有力視されていたが、土壇場で道長に内覧の宣旨が下された。おまけに、道長は右大臣に昇進し、内大臣の伊周を追い越した。伊周が大いに落胆したのは、もちろん言うまでもない。

 普通なら大人しくするところかもしれないが、伊周はプライドがあったのか、おじの道長に対して対抗心をあらわにした。同年7月の陣座(会議)において、伊周と道長は激しい口論になった。

 それどころか、あわや掴み合いの大喧嘩になりかねない状況だったので、公家らは壁の後ろで盗み聞きをするありさまだったという。ただ、何で揉めていたのかは不明である。

 同年7月、道長の従者と隆家の従者が七条大路で大乱闘を繰り広げた。隆家は大変な荒くれ者と知られていたが、当時、公家同士が闘争に至ることは、決して珍しくなかった。こちらも何が原因か不明であるが、弓矢を用いたというのだから、とても尋常ではなかった。

 いったん事件は終結したものの、隆家は気が収まらなかったようだ。同年8月、道長の随身の秦久忠が、隆家の従者によって殺された。この事件が伝わると、さすがの一条天皇も隆家に対して、何らかの処分を下さないわけにはいかなくなった。

 事件の翌日、隆家は犯人を匿った罪により、参内の禁止を一条天皇から命じられたのである。隆家がこの処分に納得しなかった可能性は高いのではないだろうか。

 このように、伊周は道長を恨み、闘争を繰り広げていたが、呪詛も行っていたという。伊周の外祖父の高階成忠は、学才のある人物だったが、性格に問題があり嫌われていたという。成忠は孫の伊周の栄達を願い、陰陽師らを邸宅の招くと、道長を呪い殺すべく呪詛させたという。

 このように、伊周と隆家の不満は高まっていた。その影響も少なからずあり、勃発したのが長徳の変である。事件は従者が花山天皇に矢を射たものであるが、その後のついてはドラマの進行に合わせて、改めて取り上げることにしよう。

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『蔦屋重三郎と江戸メディア史』星海社新書『播磨・但馬・丹波・摂津・淡路の戦国史』法律文化社、『戦国大名の家中抗争』星海社新書、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房など多数。

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